太靈道断食法講義録 第4回

第4節 短期断食の準備

 断食は仮に短期であるにしても、その準備がまったく不用意であってはならないが、それは長期断食に比して著しく異なっているところがあるわけではなく、幾分それを斟酌して応用すべきである。
 しかしここに注意すべきは、短期の断食において食物の順減法によるべからざることである。もし順減法によって行なったとすれば、断食の効果を見ずに終わることがある。
 しからばいかなる方法を取るべきかというと、最初の1日は断食をなし、次の1日は食を摂り、次の2日は断食し、次の1日は食を摂り、次の3日は断食をする、というように、だんだんと断食をする日数を増していくようにするのである。
 短期なればといって、2週間、3週間と持続して断食するのはよろしくないのである。すなわち2日目、5日目、9日目というように食を摂るのがよい。
 この断食中のある1日に食を摂る場合には、必ず粥食に限らねばならぬ。普通の食事を摂るのは弊害があり、特に脂肪分の多い食物を摂るのは禁絶すべきことである。
 要するに、短期の断食を長期の断食に比する時は、著しく行ないやすいことになっている。そして、それに関する諸種の条件としても、ほとんど同じである。ただ1つ異なるところは、食物の順減法によるかよらざるかにあるのみである。

第4章 断食の姿勢
第1節 正座

 断食を行なうに際して、最も適切なる姿勢は正座である。この正座を行なう時は、自然と心身ともに落ち着くものである。しかし、この正座に慣れない人にあっては、往々にして腰部、脚部に苦痛を感じることがある。このような場合は、生理的にも心理的にも故障を生じて、断食の効果を減殺するおそれがあるために、時々胴体四肢を自由にして、微弱な顕動法を行なうのは特によい方法である。

第2節 椅座

 椅座というのは、椅子様のものに腰かけることを総称した言葉である。この椅座の法は、断食に際してはどちらかといえば適切ならざる方法である。一般にものに腰かけるということは、腹力の空虚を招来しやすいのである。腹力の空虚により、脳に充血することもあり、また貧血を起こすことにもなる。この充血と貧血とは、人により時により場所によって異なるものであるが、とにかくこの椅座ということは、断食の際には避けるべきものである。

第3節 座眠

 座眠は、普通時において特に行なうことはない。居眠りのごときは一種の座眠と見れば見れないこともないが、結局変則たるに過ぎないものである。
 普通人は、夜就寝する時は臥眠を取る。しかるに断食をなす時には、柱等に寄りかかったままで座眠するのがよいのである。
 この正座したまま何物かに寄りかかって眠るのは、断食の時において最も適切な睡眠法である。断食時において横臥するというのは、非常に疲労を来たすものであるがゆえに、特に座眠を選ぶわけである。
 しかし、人によっては長い習慣を破るということが、心身に何らかの変調を来たすというような時には、敢えて座眠を強いずともよいのである。
 以上は、長期断食の場合について述べたのであるが、短期断食の場合は、いずれの姿勢によって眠ってもさしたる影響はないのである。

第4節 臥眠

 臥眠といっても、人々の習慣によってその形式は一様ではない。普通においては、仰臥または横臥の姿勢をとる者が多く、胸部に疾患のある人が稀に伏臥の臥位をとることもある。
 仰臥はほとんど普通に行なわれている臥位ではあるが、常時においても体力・心力を消耗するものであり、それが断食時となるとその弊害は一層夥(おびただ)しいことになる。ゆえに断食中には、絶対にこの仰臥を避けなければならない。
 また寝ながら深息法を行なうことは、断食中には絶対に禁ずべきものである。普通に正座または正立して深息法を行なう場合には、呼吸が逆式呼吸になるのである。すなわち、吸息の時に腹部を緊縮して陥凹し、呼息の時には腹部を膨大ならしめて、突出するのである。これが臥式になると、吸息・呼息と腹部との関係が座式及び立式の時とは反対になる。
 ちなみに、この臥式の深息法について一言説明してみると、まず仰臥して姿勢を正し、静かに長く深く息を吸い込み、それとともに腹部を膨大ならしめて突出し、幾回も息を吸い足して充分肺に吸気を送るのである。
 しかして次に呼息に移るまでの瞬間、数秒間息を止めるのである。それから息を強く長く細く吐く、というよりはむしろ吹き出し、それとともに腹部を緊縮して陥凹せしめるのである。
 この呼吸の方法は、普通時においては座式呼吸とともに奨励すべきものであるが、断食時においては1日4回の立式あるいは座式の深息法、というよりはむしろ気食法を行なうために、2つの形式の違った深息法を行なうことは絶対に避けた方がよいのである。
 それから枕についての注意としては、普通時に用いるものよりも、5分(約1.5センチ)内外高いものを用いる必要がある。

第5章 断食と深息
第1節 座式の深息

 座式の深息法は、立式と同じく呼気の時には腹部を突出し、吸気の時には腹部を陥凹せしめるのである。この方法は、前章第4節に述べたところの臥式深息法とはまったく反対である。しかして断食中において座式深息法を行なう時刻は、朝・昼・夕・夜の4回である。

第2節 立式の深息

 立式深息法は、その方法において座式とまったく同一である。しかしてその深息の回数は、何十回、何百回と無制限に行なうべきものではなく、やはり普通時と同様に10回内外を最大限度とするのである。それを行なう時刻も、座式と同じく朝・昼・夕・夜の4回である。
 ちなみに、前節の座式深息法及び本節立式深息法において、いずれも朝・昼・夕・夜の4回行なうと記してあるが、それは座式及び立式の両方を4回ずつ行なうという意味ではなく、座式または立式いずれかの形式を選んで、毎日4回ずつ励行せよとのことである。こうしたことは常識によって明らかなことではあるが、特に記しておく。

第6章 断食と冥想
第1節

 断食と冥想とは実に深い関係を持っているものであって、もし断食のみ行なって冥想しなかったならば、断食によって何らの効果をも見い出すことはできない。冥想を伴わない断食は、実に無意味・無価値なものであると断じ得るのである。
 およそ人生は、ほとんど冥想に立脚しているのである。人間の思想にしてもまた宗教のごときにしても、すべて冥想によって生まれたものである。遠き歴史の蹟を温(たず)ねるまでもなく、事実冥想によらずしては何物も生まれ得ない。思想にしても宗教にしてもそうである。
 世間に唱える発明のごときも、それは科学的なものであるが、広義の冥想によって生まれたものである。
 いわんや、深遠幽遠なる思想または宗教にして、冥想によらずして生まれるということは、誰か断言し得られよう。
 しかしてその冥想の性質としては、あるいは刹那的なものあるいは持続的なものありといえども、人間は常に冥想によって活動しているのである。冥想は単に目を閉じて黙想するというものではなく、冥々裡に太靈と融会一致することを意味しているのであるから、太靈道においては「瞑」の字を用いず、「冥」の字を用いているのである。   
 冥想と続けて「想」の字あるがゆえに、何事かを想うものとしてこれを解するのは大なる誤謬であって、冥想は決して何物をも思うものではないし、もし一歩を譲って何物かを思うものとすれば、それは太靈との冥合一致を思うのである。
 さきに人生はほとんど冥想に立脚していると述べたが、それは人間は朝から晩まで座り込んで冥想しているといったのではない。人間の活動も、思想の発生も、発明の完成も、ともに太靈と冥合しなければ実現不可能であることをいったものである。
 人間は冥想によってすべてを推理し、断定していくべき力を得なければならない。それは、冥想中にそれらの推理力・断定力を得、または冥想中において新しき発明・考案を得ようというのではない。冥想しながら何らかの名案・奇策を得たいと思う時には、その注意に妨害されて冥想及び断食の目的を達することができないことになるのである。
 冥想さえすればそのうちには良い考えも浮かぶだろうと思ってこれを行なうのは、冥想の穿き違いともいうべきものである。冥想はそれによってすべてを推理し、断定し、独創し、統一していくべき力の本現を養うところの修法である。すなわち個性我を脱却して太靈と冥合し、その境地から生まれる力を得、その力によって一切の事物現象に対して、適応の思考と処理とを施していくべきものと解釈しなければならないのである。

第2節 冥想の要領

 冥想の要領は、当初において腹部の真点に意念を集中して心身の統一を図っておくことが重要である。
 それから冥想に入るのであるが、冥想の第1の基点とするところは眉間である。まずその眉間に思念を集中し、その思念を頭頂の方に向かわせ、大脳を過ぎてさらに小脳、延髄に及ぼし、脊椎を通って腎臓部に至り、最後に腹部に戻って終わらせるのである。
 この時に、その集中移動させる思念は、「全真太靈」を心唱する。この理由は、後章において詳述することになっている。
 そしてこの思念を集中しつつ瞑想している人を、その左側に立ってこれを見ると仮定すると、その思念の移進されていく道を連ねた線は、数字の3の字を描いているのである。すなわち3の字の起点が冥想者の眉間であり、終点が冥想者の腹部ということになる。
 したがって冥想者は、自分の身体を3の字にかたどって、全真太靈という思念を3の字に当てはめて心唱すればよいのである。そうする時は、身体によく気血が流通するようになってくる。
 以上は冥想の要領であるが、これによって人々は病気煩悶を忘れ、さらにそれは太靈と直通融合した状態なるがゆえに、病気煩悶等はその結果として消散するに至り、運命の上にも好影響をもたらすことになるのである。

第7章 断食と聖黙
第1節 聖黙の意義

 聖黙は、個性我を脱し、意思表示をなさざる境地に入る修法であって、黙の字があるからその語義に囚われて単に無言であるというように解してはならないのである。
 ただ口を閉ざしているにしても、意識が動いている間はいまだ完全な聖黙の状態に入ったものとは称しがたいのである。
 要は口を閉ざして黙を守ると共に、内面の意識もそれに相応して沈静の状態に帰し、まったく個性我の意志を脱却するに至って初めて、冥想は確立完成されるのであり、意志を脱却し、内面的にも外面的にも意思表示をなさざるに至って初めて、聖黙は確立完成されるのである。この境地は、実に人生百般の根礎であって、全真なる思想文化はこの聖黙より出でなければならないのである。
 目を転じて従来の文明を見るに、その最高標準に達した時代は至って少ないのであるが、それすらも冥想を基調とした範域を脱していない程度のものであって、その上にたまたま太靈と融合が行なわれたに過ぎないのである。すなわち人間の意志を標準として建設された文明であり、いわば冥想文明とでも名づけるべきものであったに過ぎない。この文明によって絶対そのままの姿に接しようとしても、そういう素質源泉の上に建てられた文明でないゆえに、それは到底不可能なこととしなければならぬ。この境地に達するには、人間はただ聖黙によってのみ、絶対そのままの尊き御姿に接することができるのである。
 人間の文明は、必ずや冥想を基調とした文明より聖黙を根礎とした文明に進まなければならぬ。すなわち精神文明より、靈的文明に進み、全真世界はそこに燦然として建設されることになるのである。