Healing Discourse

ボニン・ブルー 小笠原巡礼:2013 第14部 エピローグ

 小笠原は遠い。
 おまけに6日という単位で旅行スケジュールを組まねばならないにも関わらず、夏休みのハイシーズン前というのに、上等の客室チケットは発売日にたちまち完売。
 行きは幸い、最上の特等が友人たちの尽力により確保できたが、帰りは最下等の2等となった。大部屋に男女かまわず100人以上が押し込められ、1人分のスペースが畳1枚分程度の狭さだという。
 その1つ上のクラスの「特2等」に、小笠原滞在中、2人分空きができたとのことで、急遽[きゅうきょ]そちらに切り換えたが、こちらは2段ベッドがいくつか並ぶ大部屋で、2等よりはいくらかマシという話だった。
 行きの特等(個室で小さなベッドが2つあり、トイレ、シャワー、おまけに冷蔵庫つき)でさえ、ぐらぐら揺れる船内をあちこち探検することもできず、食事時間以外はほとんどベッドに寝たきりで、あまりの退屈さに私はずいぶん久しぶりに「酔い」を感じそうになったほどだが、もうその時点で小笠原を目指したことを激しく後悔し始めていた。

 が、25時間半をひたすら耐えに耐えて、ついに小笠原へ到着。
 ボニン・ブルーの海で禊[みそ]ぎ祓[はら]われ、美しい花々、観[み]慣れぬ光景、一見厳[いか]めしいけれども深い優しさと寛容さをたたえた人々と出会ってゆくうちに、スッカリ小笠原が気に入り、旅の終わり頃にはここを去りがたいと感じるようにすらなり始めた。

 小笠原を去る人々に対し、送る側は「行ってらっしゃい」と声をかけ、こちらは「行ってきます」と返す。

 出港時、雄壮な小笠原太鼓の演奏が始まると、大型定期船がゆっくり、ゆっくりと動き出し、異様なまでの感・動があたりを満たす。
 そばにいた若い女性たちが「行ってきまぁ~す!」と絶叫し、手にしていた花輪を海に投げ込んだ。
 去る者も、見送る者も、誰もが精一杯手を振っている。
 気づくと、私の頬を一筋の涙が伝わり落ちていた。
 いつの間にか、ここが大好きになっていたのだと、その時初めて気づいた。
 後で聴いたが、妻も同様の感・動を覚えたという。
 ツアーボートが何艘も伴走し、中には海に飛び込む人も。
 不思議な魅力にあふれた、素晴しい場所、小笠原。

 行きはヨイヨイ、帰りはコワイ。特等であれだから特2等とはいかなるところぞ、と私も妻も戦々恐々としていたのだが、腹を括[くく]って向き合ってみれば、意外なほど快適で、狭いベッドに冬ごもりするみたいに収まってグッスリ眠っているうちに、あっというまに都心の竹芝桟橋に着いてしまった。
 途中、別の2段ベッドで寝ている妻をそっと起こし、深夜のデッキで手をつなぎ合って星空を眺めたり、レストランで食事を楽しんだり、DVDルームで映画を観たり、多少の揺れも何のその、船中ライフをすっかり堪能した。
 小笠原で鍛えられ、「適応力」が著しく向上したらしい。

 遙かなる小笠原。憧れをかき立ててやまぬボニン・ブルーの世界。

——完——

 

付記:本シリーズの文章を、私は留置所の檻の中で一気に書き上げた。
 法的な理由で詳しいことはここに記せないが、人生の転変の面白さに、自ら一興を覚えている。
 誰かに迷惑をかけたわけでもなし、どこかに被害者がいるわけでもない。ただ自らの信念に従って真っ直ぐ突き進んできた結果が「これ」であるならば、自らに与えられるすべてを私はニッコリ笑って全面的に受け入れる。無限の感謝に満ちて。

 私がここにいるのは、大切な友人たちを法の暴力から守るためでもある。
 そして、法の名の元に「意識を換える」という基本的人権の蹂躙[じゅうりん]を敢えて、平然となす巨悪に対し、断固たる抗議を表明するため、逮捕以来断食をずっと続けている。
 本日、完全絶食13日目。
 私がこれから食を断つと聞いて、検察官は私の命になど二束三文の値打ちもないといわんばかりの冷淡な態度で、「そんな行為には何の意味もない」「あなたの単なる自己満足にすぎない」と決めつけた。
 私の取り調べ担当刑事は、「おう、そうか。それならあんたがやめるまで、徹底的につき合おうじゃないか」と、断食を始めたが、3日しかもたず、直立不動の姿勢で私に深々と頭を下げ、「ごめんなさい、食べてしまいました」と謝罪した。

 手錠をかけられ、腰縄をつけられて護送の車に乗り降りする際、毎回やけにたくさんの警官が周辺を警護していると思ったら、龍宮道で私が暴れ出し、逃走するのを防ぐためであるとのこと。
 それを聴いた時は、思わず大笑いしてしまった。そんなことをすれば、絶食という非暴力による私のささやかなレジスタンスが無意味となり、台無しとなることを、理解できないらしい。

 とらわれの不自由な環境にあってさえ、私たちがこれまで探究してきたヒーリング・アーツの輝きはまったく損なわれることがない。
 私はこのまま死ぬのかもしれない。が、苦しみも、飢餓感も、怖れも、不安も、葛藤も・・・・全然感じない。
 あるのはただ、穏やかで悦びに満ちた充足感のみ。

 常に誇りを失わず、堂々と、そして毅然[きぜん]とした態度・姿勢を心がけている。
 周囲の人は皆、敬いをもって私に接してくれるようになった。
「随処に主[あるじ]となる」の境地。
 私は自らの境遇をまったく、まったく、・・・・・まったく、恥じてない。

 さて、かような次第にて、留置所内で文机[ふみづくえ]もなく、一片の資料さえなく、記憶のみを頼りにノートに書きなぐった文章だ。
 推敲を重ねることもできず、不充分、不完全、不徹底な点の多々あることは、どうぞご容赦いただきたい。

 愛する妻と一目会うことも許されず、手紙を届けたいとの願いも一切叶えられず、妻が送ってくれた弁護士と初めて接見したのがつい数日前のことだ。
 刑事・検察官すら、「なぜ悪いのか」と問われて答えにぐっと詰まるような悪法に基づき裁かれることを、私はむしろ誇りとするものだ。
 新たな時代、新しい価値観が開かれるための人身御供[ひとみごくう]の役割を、私は喜んで受け容[い]れる。

 今回の逮捕に先立ち、妻とは水杯を交わし(2度と会えない別れの儀式)、そして、ああ何たる僥倖[ぎょうこう]ぞ、小笠原と伊豆七島の利島へ共に巡礼し、濃密な時間を共有することまで許された。

 巡礼紀行を読みつつ、呑気に、楽しくやっていると思われた方がいらっしゃるかもしれないが、事前に「こうなる」とわかった上での、人生の総決算としての生命[いのち]の旅だ。これまでの巡礼も、毎回、人生すべてを賭けてきた。
 そして地球からのメッセージを、私たち独自のオリジナルな表現様式を通じて人類に伝える媒体[ミディアム]の役割を、果たしてきた。

 現在53歳。
 充実した、歓びと活気と愛に満ちた人生を、これまでずっと送ってきた。
 あまりにも充[み]たされ過ぎている。これ以上受ければ、あふれこぼれてしまう。
 これ以上を求めることは、強欲としか、私には思えない。
 いつ死んでも悔いなし、との覚悟の元でずっと生きてきた。
 死は私を支えるものだ。

 ただし、くれぐれも勘違いしないでいただきたい。
 私は命を粗末に扱い、ただ死なんがために死のうとしているのではない。
 死に急ごうとしているわけでもない。
 今、「生き」ながら断食により反逆している。
 その1日1日が、私にとってのすべてだ。

2013.10.06 記す

 

付記2:小笠原巡礼から広島へ帰還した夜、これまで12年間、妻と一緒にしか寝たことがなかった愛猫マナが、私の両脚の間にそっと遠慮がちに入り込んできて、柔らかく丸まって眠りについた。
 まるで「嵐」が間近に迫っていることを知っているかのように。