Healing Discourse

幕間2 第1回 スジを通す

 平成21年11月7日。二十四節気において、「冬が立つ」とされる日。冬のスピリットの息(スピリトゥス)を受けた木々の葉が、華やかに競うが如く染まり翻(ひるがえ)る頃。
 宮島(厳島)の紅葉谷(もみじだに)を、妻の美佳と共に訪れた。

宮島、紅葉谷にて。

「熟す」という言葉の真義を、天地自然の裡に感じ、学び取るため、私たち夫婦は毎年秋になると、近所の宮島へと、紅葉狩り巡礼に繰り出す。
 巡礼という言葉は、すでに一般の人々の間にまで浸透し始めているようだ。十数年前、私たちがヒーリング・トリップとしての巡礼を提唱し、実践し始めた頃には濃厚にあった冷笑と忌避の雰囲気は、今や巡礼という言葉の影にほとんど感じ取ることができない。「祈る」という言葉についても同様だ。
 人々も無意識のうちに、心身の浄化を祈り、求め始めたのだろう。末法の世の暗闇が、一層深くなりつつあるからだ。

「ものを知らないにもほどがある」、そんな風に思われても致し方ないのだが、告白する。
 実は今回初めて、紅葉(もみじ)を下から観る面白さを知った。「もみじの錦」という言葉の意味を、自らのリアルな体感を元に、初めて理会した。
 モミジと総称される木々を、観の目で下から見上げる。するとたちまち、葉の連なりが雄大壮麗な錦の織物と化し、それが空間にいくつもパアーッと拡げられているように観えてくる。
 このことに、私は今回の宮島巡礼でようやく気づいた。これまでは、もっぱら上(または横)から紅葉を観るだけだった。ところが紅葉の見え方は、上からと下からとでは、まったく違うのだ。

 早速妻に教えたところ、彼女も直ちに観の目モードに入っていった。錦の立体絵巻が空間的に入り乱れる絢爛たる世界へと、2人打ち揃って参入(クオンタム・リープ)。私たちの口から、感嘆の声が思わず漏れ出た。
 観の目を極めたまま、ゆっくり移動してみる。・・・と、もみじの錦絵が動画となり、ゆっくり動き始めるではないか! 光と影が交錯し合い、無数の物語が同時に紡ぎ出され、絡まり合っていく楽しさ。
 さらに、姿勢を高くしたり、低くしたり、微妙に角度を変えてみたり・・・・・。
 眼前に翩翻と重なり展開する、大自然の生きた衣装。なるほど、これは確かに「紅葉の錦」だと、夫婦2人で感心することしきり。
 それから、2人で笑い転げた。2人とも、これまでモミジを半分しか観ていなかった滑稽な事実が明らかとなったからだ。

 しかし、「明きめくら」は、どうやら私たち2人だけではないようだ。行き交う人々をしばらく観察してみたが、紅葉の空間性を下から見上げて楽しんでいる人を、ついに1人も見出せなかった。
 上や横から眺める際も、皆、全景中の数点間にすばやく視点を飛ばし、後はちょっと視界を広げてみるだけという、無欲といおうか勿体ないといおうか、実にあっさりした淡々たる態度だ。それから、おもむろに一息二息、深く呼吸したかと思うと、「さて、どうやって帰ろうか」とばかりに、目がちょろちょろ周囲を伺い始める。
 天地の気を呑吐しつつ、紅葉と共に五感全部で舞い踊り、歓びに満たされている者は、驚くべきことに、私たち2人だけだった。
 スーッと世界が遠ざかる。たくさんの観光客で賑わう紅葉谷が、人跡稀な深山幽谷の如くに、ふっと感じられた。

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 第1章を書き終えた後の残心と、次なる<飛翔(ジャンプ)>に備えての心身調律を兼ね、短いヒーリング幕間劇をこれから綴ってみようと思う。

 筋骨矯正術という未知なる「原石」を期せずして手に入れたことを、第1章の最終回で皆さんにご報告した。その原石を磨く作業を、今、妻と一緒に、楽しく進めているところだ。
 毎日、実践・研究のための時間を欠かさず設けると共に、朝といわず昼といわず夜といわず、ちょっと時間がある時には、お互いいろんな箇所に施術し合っている。
 わずかな期間が経過したに過ぎない。が、この原石の裡に秘められた途方もない輝きが、様々なヒーリング効果として、早くも私たちの心身を照らし始めている。
 筋骨矯正術とは、私たち1人1人の自然な本来のあり方を指し示し、個々別々に導いていこうとする術(わざ)なのだ。その効果の実感は、一言で言うなら、「しっかりする」ということだ。これまで妻以外に施術した人数は10数名程度だが、皆、似たような感想を漏らしている。
「筋が通る」といってもいい。ただし、ここにいう筋とは、体の中を寂しくまばらに通う細々としたものではまったくなく、骨の周りにぎっしり賑やかに群がり集って人の形を成す、無数の生きた筋のことだ。

 例えば、一方の足首に数十秒程度の施術を受ける。それから立ち上がり、あれこれ動きながら、両足の感覚を比べてみる。
 たちどころに、施術を受けた側の足だけが、明らかに「違っている」事実に気づく。足裏が床と密着し、非常に据わりが良くなって安定感がある。足の中身が充分満たされている。
 それに比べ、もう一方の足はぐらぐらして何とも頼りない。片一方だけ、別人の足をつけ替えたみたいだ。

 やり方は、一見したところ、非常に簡単。
 仰臥した受け手の足首を片手でしっかりホールドし、もう一方の手で爪先を柔らかく立て、伏せ、あるいは足首を回す(筋骨矯正術には、足の各部に働きかける手法がこの他にもいろいろある)。
 どこにでもありそうな、シンプルなメソッドだ。どこかで、似た手法を実際にご覧になった方もいらっしゃるかもしれない。足を前に投げ出して座るとか、あぐらをかくなどすれば、自分自身にも行なえる。
 しかし、この術(わざ)を自分や他者にかけてみて、直ちに足首が有機的に柔らかくなり、足裏が床に吸いつくように密着する効果を、あなた方はあげることができていらっしゃるだろうか? ブラブラしていた遊びの部分がきちんと調律・整正された時には、「どこにも狂いがなくしっかりしている」という実感が、必ず生じるものだ。
 あまり(あるいはまったく)効果が感じられないとすれば、それはポイントが外れていることを示している。この術の要点を、あなたは見逃しているに違いない。術の本質——術が表現しようとしている体的真理——が、体そのもので実感・理会できていない。
 すると、術の真の効力を引き出せない。術を効率良く使えない。術が効かない。

 上記と同じ原理で、手首に対しても施術できる。自分の手首で、まずは試してみるといい。
 手首をつかんでしっかりホールドしておき、指先を上に向けたり、下に向けたり、あるいは手首を回したり・・・・。
 数十秒もやれば、私には充分だ。手首が非常に濃密となり、蛇の太い胴体みたいにくねくねうねるように動き出す。手首の中にぎっちりスジが通った感じ。
 片やもう一方の手首は、スカスカして薄っぺらだ。中身がつながっていない。「通って」いない。あちこちのスジが折れ、曲がり、ねじれ、畳まれているからだ。
 手首の裡が通じると、手のあり方(手指各骨の関係性)、存在感、動きも、自ずから変わる。ガラリと、まったく変わってしまう。
 
 こんな風に、手首や足首の筋合いを変え、骨格を直ちに整え直すことが、筋骨矯正術にはできる。ただし、先ほども述べたが、ピントが外れたやり方では、まったく効かない。
 この場合のピント(焦点)とは、「人間の足首や手首をいかなるものと認識した上で、足首・手首に働きかけていくか」という「意図」に関わるものとなるだろう。 
 以前のディスコースで、入門者向けに手首や篭手(前腕)の仮想について述べた。次回は、それをさらに敷延し、中級~上級者向けの手首論、足首論を展開してみよう。

 私の観るところ、大抵の人の手首と足首は、セットで仮想になっている。ほとんどの人は、不自然にデフォルメされたとんでもない身体イメージを、自らの手首・足首に投影し、それが人間本来の自然の姿と頑なに信じ込んで、それを疑ってみようとさえしないようだ。
 いかなる道であれ、手首、足首の真(まこと)の姿を知ることは、「できる」か否を分ける重要なファクターとなるだろう。事実、私が直接知る名人達人たちは、例外なく、手首・足首の仮想がきちんと正されていた。

<2009.11.09>