Healing Discourse

ヒーリング随感2 第17回 薮蛇

◎前回、私の元に届いた匿名氏からの電子メールをご紹介した。
 霊的腐敗臭みたいな、アンチ・ヒーリング作用をぷんぷん発していたから、一読して顔を背[そむ]けた方もいらっしゃるだろう。ああいう風に変に誤解・曲解を重ねに重ね、絡め絡めて自縄自縛に陥った人々から、これまでにもああいった——汚物を庭に投げ込まれるが如き——ちょっかいを、何度も出されてきた。
 が、つまらんことに一喜一憂している暇など、私にはない。それに、今回マレーシアを再訪し、ボルネオのあの高大開豁[こうだいかいかつ]な天空に自らのすべてを開き・明け渡して、すっかり禊祓[みそぎはら]われてきたから、「つまらん些細なこと」とさえ、あれを思うことができなくなってしまった。
 しかし、ヒーリング・アーツの観点からすると、そんなものではまだまだ不足だ。
 無名氏に対し、心の底からの感謝の気持ちに満たされ、ハッピーになる。それくらいの一大変化が、心身両面で起こるくらいでなきゃ、面白くない。私だけでなく、読者まで何だか楽しくなって、ウキウキしてくるようなら、それこそ本物の「ヒーリング」といえる。
 そういうヒーリングを、今回はフォーミュラなしで、もっぱら文章(言葉)のみにより招来してみよう。

◎四半世紀前、私が広く世に紹介し、相当数の人々との絆を結ぶ役割を果たした「肥田式強健術」に関して、現在の私の考え方及び立場を、公にハッキリ表明する意味も込め、今回のヒーリング随感では、言霊を祈り・舞い招き・綴ってみる。
 妙な書き方をして申し訳ない。しかし、私はヒーリングのアート活動/表現の一環として、このディスコース・シリーズを執筆している。別のいい方をするなら、魂のレベルとつながりながら書こうとしている。
 うまい文章、わかりやすい文章、規則に完璧に則った隙のない文章、心地よい文章、・・・などを、私は一切書こうとしていない。どうせ書けもしない。
 書いていて(広義の意味において)<楽しい>限りにおいて、私は書く。
 書くことが、即、舞となり、うたとなり、響きとなり、感・動(感じて動くこと)となる境地を、私は常に目指す。
 私にとり、書くことはいつも驚き[センス・オブ・ワンダー]だ。
 書くことは、私にとって呪術にほかならない。
 岡本太郎いわく、「真の芸術は、うまくあってはならない、きれいであってはならない、心地よくあってはならない」と。

◎腰抜け・・・・例の電子メールと正中心姿勢で向き合った瞬間、この言葉が浮かんできた。
 この電子メール送信者の腰は抜けている。
 君の腰は抜けてしまっている。私は批判しているのでなく、ただ事実をありのままに述べている。腰抜けとは、私にとって、罵[ののし]りの言葉ではなく、一種の病名に過ぎない。
 自分が誰か名乗ることもできず、コソコソわけのわからんツマランことを書き送ってくるような、そんな卑怯・卑劣の徒と成り下がることを、君は肥田式強健術の道を歩み始めた当初、まさか自ら望んだわけはあるまい。
 春充のように、常に堂々として、歓びと活気に溢れて生きていきたい。そして願わくば、生あるうちに、生命の根源の神秘と直触(ダイレクトに触れ合うこと)してみたい。死んでしまった後にではなく・・・。
 そうした希望と情熱に満ち充ちて、頭[こうべ]を垂れうやうやしく、君はこの道の第一歩を踏み出したはずだ。
 それが今やスッカリ頭が高くなり(頭部に重心があがり)、死後の世界がどうのこうのと儚[はかな]い影、幻を恃[たの]んで意気がるしかできないところまで自分が堕ちきって(あるいは重心が上がりきって)しまったと認めるのは、確かに、ひどくつらく、難しいことだろう。
 しかし、君が本物の人間(真人間=真人)となることを志すのであれば、そのつらさを甘んじて受け容れねばならない。
 安心しなさい。トータルな受容に委ね切った時、君を待っているのは屈辱ではなく、安堵であり祝福だ。
 そして、仮に神の審判というものがあるとすれば、真に裁かれるべきは君でも私でもない。それについて、こうして語り始めることができるようになるまで、私も十年以上の歳月を要したのだが。

◎肥田春充によれば、腰とは動きの枢軸だ。
 私もそれに全面的に同意する。
 しかし、その腰を、腰椎と仙骨の接合点(春充)、または第4腰椎と第5腰椎の境(平田内蔵吉[くらきち]:東洋医学研究家)などと設定し、それに基づいて鍛錬を開始することに対し、私は今、断固として反対の意を表明する。
 どなたか、肥田春充(または平田内蔵吉)の説明に従い、腰腹同量の中心力を造れるようになった方が、1人でもいらっしゃるだろうか? 
 私が知る限り、1人もいない。
 それは、中心力が深遠高邁[しんえんこうまい]にして猛難不可解だからではなく、単に発見者の説明・解説法に誤謬[ごびゅう]があった、ただそれだけのことだとしたら・・・・・?
 この重大疑念を晴らすため、ヒーリング・ウェイ(いやしの道)を共に歩む同志諸君と共に、長年に渡る真剣な検証・実証作業を、地道に重ねてきた。今年でちょうど満12年になる。

◎春充自身は完璧にできていたが、その説明は完全に間違っていた ・・・・・??????? ・・・・!!!!!
 謬見・妄説と一笑に付されても仕方がない、大胆というよりは無謀な新(珍)説だ。私の方が間違っている可能性が高いことは、もちろん認める。
 が、間違えること、失敗すること、笑いものになることを、私は一切怖れない。老子いわく、「(小物に)笑われないようでは真理ではない」と。

◎私たちが主張する新しい解釈・方式に従えば、肥田式強健術のすべての型にたちまち新生命が吹き込まれるのを、あなたも実験して直ちに確かめることができる。1つ1つの型の意味も、自ずから理会できるようになるだろう。腰を、背骨のどこか一箇所と見なすことをやめ、もっとのびのびと、あまり細かいことにこだわらず、ただ臍の後ろのあたりの大きなカーブ全体を丸ごと腰として捉え、それに腹を対応させる・・・。
 完全絶対の正中心とまではすぐにはいかなくとも、春充が語っていたのはなるほどこれか!という悦ばしい手応えを、比較的短期間のうちに、1人1人がそれぞれのレベルで自覚し始めるはずだ。
 生命力そのものが高揚する感動を、しばしば味わえるようになる。それは人生の宝である、と春充や私が強調する意味も、実際に自ら体験してみればハッキリわかるだろう。
 天才的資質を備えた人間が長の年月練りに練った精妙極まりない究極的奥義・極意を、初心者がいきなりそのまま自ら体現しようと試みるということの方が、私に言わせればとんでもない無謀な暴走に他ならない。初学者は、もっと粗雑なもので構わないから、全身が隙間なく統合されて伸縮し、どこにも隙やたるみのない、満身が協調して働く気持ちよさ、爽快感を目指し、それを徹底して味わうことに意を注ぐべきだ。

◎とにかく、一時的に、仮に、で構わないから、「腰椎と仙骨との接合点(のみ)」を腰(のすべて)と見なすのを、やめてみることだ。「腰椎4番・5番の境」についても同様。
 その(狭い腰の)中にあなたが閉じこもり続けるかぎり、真実は決してみえない。が、そこから一歩外へ出て振り返れば、それは確かに檻だったのだとわかる。
 腰が、肥田春充の言うような場所ではないと私が主張しているわけでは「ない」、ということにどうかご注意いただきたい。正しい鍛錬の結果としてそこへ至る、そのこと自体を否定するつもりはまったくないのだ。私の主張の主眼点は、肥田春充が述べたのは彼個人にとっての「結果(ゴール)」であって、彼に続かんと志す者はそれを自らの出発点とすべきではない、というところにある。ゴールをスタート地点として最初に仮想してしまうと、強健術の本質を掴み損なうだけでなく、かえって心身に害となる可能性が高い。そのことについて、私は数多[あまた]の実例に鑑[かんが]み、警鐘を打ち鳴らしている。
 要は、理論に身体を従わせようとすることをやめ身体自身の声(感覚)に注意を向けよ、ということだ。「腰」という日本語と、解剖学的な腰椎(第1〜第5まで5つある)とを安直に結びつけるのもよろしくない。腰椎には腰椎の働きがもちろんあるが、春充が言うような「動きの中枢」とか「腹と連なって強い力を生む」ような働きは、腰椎よりもむしろ仙骨から発生している、と私自身は感じている。

◎腰の認知モード(腰というものを、体のどことみなし、それをどのように使うか)を、「触覚的・体感的に」変更すれば、あなたの背中も腰も、首も肩も、こまれでよりはるかに楽になる。心もゆったり落ち着いてくる。
 そうなれば、物事のあるがままをみることができるようになる。正しい判断を下せるようにもなる。卑怯・卑劣も、「敢えてしない」のではなく、自ずから「不可能(やろうと思ってもできない)」となる。
 肥田先聖[センセイ]の熱烈な崇拝者にとり、春充による腰の定義(腰椎と仙骨の間)を一時的・仮にであっても、離れてみ(ようとす)るなんて、造反・背信にも等しいことなのだろう。
 だが、どうか信じてほしい。いったん抜け出て振り返ってみれば、あなた方がこれまで執着してきた「それ(春充が唱えた腰の解剖学的説明)」は、驚くなかれ、実は牢獄にほかならなかったという衝撃の事実があらわとなるのだ。
 論より証拠、仰向けになって腰の反っているところへ蒲鉾型の板か丸棒を差し込み、それを背骨の1点に当てていると認識するのと、腰椎(及び仙骨)のカーブ全体に当てていると認知するのとを比べてみれば、後者の方が圧倒的に楽であることがわかるだろう。ただ、「認知」を変えるだけなのに、大きな差が生じる。

◎無名氏よ。
 君は、自分の人生を狭苦しいとしばしば感じているのではないか? 真の力が発揮できていない。その機会も与えられない、と。
 生きれば生きるほど、心も体も、固くギクシャクとしてくる人生。
 どうにも面白くないことが多すぎる。つまらないことでしばしばイライラさせられる。楽々と、悠然と、生甲斐に満ちて楽しく生活している他者が嫉[ねた]ましく、憎らしくもなってくる。
 それはすべて、君の「動きの枢軸(腰)」が、元来あるべき場所から移動してしまっていることが原因だ。
 君は、これまで肥田春充の教えに忠実に従い、腰椎と仙骨の接合部(または第4腰椎と第5腰椎の境、など)を腰とみなし、そこを反らせることで下腹に力が来るよう、一生懸命努力を重ねてきた。できるだけ正確に行なえるよう、解剖図なども参照したことだろう。
 それにより、腰や腹に少しは力が入るようになってきた。が、春充が称揚する絶妙感とはほど遠く、純粋な健やかさも強さも、いまだ実感できてない。長年続けてきたがハッキリした効果が現われず、年齢を重ねるほどに焦りが増していく。
 そのようにして、特に卓越した効果もあがらないまま、「腹がカエルみたいによく膨らむようになった」とか「歳を取っても寝たきりになってない」程度のちっぽけな達成を抱きしめ、人生の最終ステージへと突入していった哀れむべき肥田式修行者を、私は嫌になるほどたくさんみてきた。「荒波先生」もその1人だ。

◎君も、かつては春充に深く共感し、真理への道を誇らしげに歩み始めた真摯な探究者の1人だったはずだ。その頃の新鮮な気持ちや矜持[きょうじ]を、君は今でも直ちに呼び起こせるだろうか? 
 まずは、自己の価値観に従って他者を裁こうとすることを、きれいさっぱりやめなさい。他人を構っている暇など、君にはないはずだ。他者に自らの中心を投影してきた、従来のその意識の用い方を反転させれば、君自身の内面に力と意識が頼もしく集約するようになる。その一事(煉丹)に、君の情熱のすべてを注ぐことだ。
 おそらく君の情熱は、もう相当すり減ってガタがきているに違いない。情熱こそ、私たちに活力を与えるものだ。私たちを駆り立て、ことを成さしめる原動力だ。何ごとにも情熱を感じられなくなってしまった人生を想像してみるといい。その状態が永く続くと、人は自らの命を絶つ。
 真[まこと]の腰は、情熱の中心でもある。

◎肥田春充は、真勇に充たされた知性あふれる勇士を量産しようとして、却って腰抜けの群を作り出してしまった。そして、その片棒を、私も知らず知らずのうちにかついでしまった。
 春充の偉大さに眩惑され、彼の言葉が間違っているかもしれないとは、なかなか気づかなかった。気づけなかった。バカバカしいことに、自らの内発的体験を、春充の説明に無理に合わせようとさえしてきた。
 猛省し、二度と同じ過ちを繰り返さぬと、わが血にかけて神明に誓った。

◎聴くところによると、私が四半世紀前に初めて強健術を世に紹介した時には存在しなかった肥田式の免許とか皆伝なるものが、今はあるのだそうだ。紙切れ(免状)や木切れ(看板)にすがらねば世に立てない者の腰は、明らかに抜けている。腰が抜けた強健術を、腰抜けから習って、一体どうするのか。
 私自身は、肥田式強健術という過去の優れた流儀を、敬いをもって丁寧に発掘・研究していくことで、荒廃した無人の廃虚から途方もなく素晴らしい宝を発見する幸運に恵まれた。
 その秘宝を活用することで、私は物心両面で極めて恵まれた生活をこれまで送ってきたし、今現在もますます豊かになりつつある(言うまでもなく、ヒーリング・アーツ流の豊かさについて私は語っている)。
 正しくアプローチすれば、強健術は本当に素晴らしい効果を発揮する。しかし、やり方を間違えば、長年の間にじわじわと、体を歪[ゆが]ませ心を歪[ひず]ませる。
 神宝は、恐るべき龍[ドラゴン]によって守られているというわけだ。

◎繰り返すが、春充自身は完全に「できて」いた。
 しかし、心身統合の原理と方法とを「解剖学的に正確に叙述し得た」とする彼の言葉は、いささか自惚れが過ぎたのではなかろうか? 
「わかったと思った時は、進歩が止まる時だ」とは、春充が推服した実父・川合立玄[はるつね]の言葉だ。
 空恐ろしいほどの真理が、この教えの中に込められていることを、私は数多くの事例を通じ、学び取ってきた。
「わかったと思った時は、進歩が止まる時」・・・・ヒーリング・ネットワークにおける重要な箴言[しんげん]の1つだ。天翔[あまがけ]る超越的絶頂体験のさ中で、人を大地(現実)と結びつける錨の役割を、それは常に果たしてくれる。
 だから、私も「わかった(できた)」なんて、決して言うつもりはない。私が今述べているのは、あくまでも「単なる一歩(1つの到達点であると同時に、次なる出発点)」について、だ。

◎西洋科学の言葉で東洋的修養の粋[エッセンス]を語ろうとした、春充の着眼点は真に素晴らしい。それが本当に成されたなら、これまで秘教的にシンボライズされてきた秘中の秘[シークレット・オブ・シークレッツ]に、万人の手が届くようになるかもしれない。その新しい知識と技術は、人類という生物種そのものを、根底から変えていく可能性を秘めている。
 しかし、春充はそうした試みの先鞭をつけはしたが、それに成功したとはとうてい言い難い。事実、彼の説明によって「わかり」「できる」ようになった者は、1人も出ていない。
 肥田春充は、3大学4学部を同時に卒業した俊才ではあった。が、4学部の内容は文学部、商学部、政治学部、経済学部のいわゆる文系ばかりで、医学とか生理学、解剖学などの理系分野は1つも含まれていない。
 彼の解剖学的知識の不正確さは、その著書の中で具体例をいくつも指摘することができる。特に初期の著述において、腿[もも]の表と裏の筋肉名を取り違えていたり、臍から下だけに腹直筋があると述べるなど、素人っぽい間違いをいくつも冒している。
 このように、春充は決して無謬(過ちを犯さないこと)などではなかった。
 そのあやふやな解剖学的知識から推して、最も肝要な基本姿勢の説明においても、彼がとんでもない大失敗・大失態をやらかしていた可能性が、・・・・果たして・・・・・・絶対ない、と言い切れるだろうか?

◎腰の位置を、春充が言う「腰椎と仙骨の接合点(後に平田内蔵吉により、腰椎4番・5番の間と訂正)」であると頑なに思い込み、信じ込み、自らの体に強制することをいったんやめ、これまでスッカリ忘れ去って顧みてこなかった<腰椎や仙骨(背骨の腰部)全体>へと、注意を広げてみる。それら全部(1つの大きなカーブ)を、腰とみなしてみる。その真ん中に、腰の力の焦点が自然に来るよう調整する。・・・・・・『ムー』誌に書いたのはここまでだが、さらに先がある。
 腰の骨全体を活かす、そのためには、腰仙椎(骨)それ自体を直接どうにかしようとするのでなく、腰椎の両脇にある太い「スジ」に意識を通じさせるのだ(このスジは仙骨を覆ってもいる)。その「意識」は当然ながら、スジ(筋繊維の方向)に沿って入る。ところが、腰を背骨のどこかとみなして使う(反らせる、など)やり方では、スジと直角の方向に意識が働く。人々はなぜか、直角に道を踏み誤る。クリシュナムルティいわく、「物事の直角の向きに真理がある」、と。
 前述の、仰向けになって腰に丸棒等を差し込む体勢において、腰仙椎全体を意識することから、さらに進んで、「骨ではなく、その両脇のスジ(脊柱起立筋)を当てている」という風に認知を切り替えてみるといい。さらにずっと、楽になる。ここから出発するのが、至当と「身体丸ごとで」感じられるだろう。となれば、腹というものも真ん中から左右に割って、腰のスジと各々相照させるのが自然だ。肥田春充が、最初は「腹直筋」を強調していたものが、正中心悟得後は「腹斜筋(横腹の筋肉)」へと強調がシフトしたことも思い起こしてほしい。このあたりの説明は、ちょっと専門的になってしまったが、強健術の大まかな基礎知識がある方を対象として述べた。

◎腰の認知を一時的にちょっと変えたからといって、別に死にやしない。神罰も下らない。これはダメだと思ったら、すぐ元へ戻せばいい。
 大丈夫だから、誰もいないところで、自分一人でゆっくりやれる時間と場所を確保し、説明を何度も熟読しながら、そろりそろりと、少しずつ進んでいくといい。
 ちょっとでもわかれば、その時はすでに呪縛(ある種の洗脳)が解け始めている。そうなれば、全面解放まであともう一歩だ。
 いったん飛び出したなら、自分が恐るべき巨大な鎖につなぎ止められていたのだとハッキリわかる。
 肥田春充が、好きこのんでこんなひどい仕打ちを私たちにするはずがない。春充は、「肥田式の奥義・極意を、(人類のため)一切包み隠さず、すべて公開した」と著作中で述べているが、嘘偽りのない真情をこの言葉の裡に感じるのは、ひとり私のみではなかろう。
 しかし・・・・しかしながら・・・・・いったんわかってみれば、これ(腰椎と仙骨の接合点とか腰椎4番・5番の間といった極めて狭いエリアのみを、腰として感じ・使えと初心者に求めること)はちょっとひど過ぎる。誰もできず、わからなかったのも無理はない。
 少なからぬ数の人々が、無邪気に春充の教えに長期間従った(無理・不自然を自らの身体に強制した)ことで、心と体がゆっくり壊れていった。その他の大半の人々は、特に何も変わらないまま、人生の貴重な時間を浪費した。これは、人類に対する呪いといっても、決して過言ではないかもしれない。「釈迦といふ いたずら者が世にいでて おほくの人を迷はするかな」(一休)。
 春充の魂は、自らの過ちを踏みにじり、正す者の出現をずっと待ちわびていたに違いない。先人の御霊[みたま]に対する真の供養として、十全なる愛と祈り、そして自覚と責任をもって、私は肥田春充の教えに、今、全面的に反逆する。

◎私は、誰からも肥田式を習ったことはない。書生っ子の時分、何人かの自称・肥田式師範のわざを直接拝見したことがあるが、習いたいと思った人は1人もいなかった。中心力発動につながらない表面的な型だけ学ぶなんて、時間と労力の無駄遣いでしかない。
 春充の求めにより肥田家(肥田式にあらず)を継いだ嫡子・通夫[みちお]氏は、晩年、「私には正中心のことはまったくわからない」と正直に明言していた。
 これは私が通夫氏から直接聴いた話だが、春充は生前、通夫氏を含め誰にも、肥田式強健術を指導しなかったといい(親しい者から真剣に頼まれれば型をちょっと示演してみせることはあったが、解説は一切なかった)、春充の直伝・認可を受けた肥田式の師範、指導者は1人も存在しないそうだ。
 この通夫氏の証言を裏付ける春充自身の肉声が、奇跡的にも現代まで保存されていた。死へと至る完全断食に入る直前(昭和31年4月29日)、公の場で行なわれた講演会にて録音されたものだ(春充の死は、同年8月24日)。
 初期の家庭用テープレコーダーによる録音だから、少し聴き取りづらいが、姿勢を正し、春充の言葉に共に向かい合ってみよう。

「・・・・現在、74歳に至りますまでの、この合理的な鍛練(肥田式強健術)を一貫すること、50余年。・・・・50余年!! しかしながら、しかしながら、わたくしは1つの道場も持っておらない。1人の弟子も創っていない」

◎もはや余計な説明は一切不要だろう。
 肥田式強健術は、春充一代で絶えたのだ。肥田式を春充から直接継承した弟子、師範、免許皆伝者は1人もおらず、いわんや肥田式の宗家とか家元のようなもの(としての肥田家)など、存在しない。
 だから、無名氏、及び同様の誤解者・曲解者に対しお答えするが、私は肥田家と和解する必要はないし(そもそも争ってさえいない。一切無関係)、肥田家の許可を取って云々という話もまったくの筋違いだ。
 そして、無名氏(ら)にさらに告げるが、私は君の礼を失した誠なき行ないに触発され、ヒーリング・エクササイズ(広義の強健術)についてどんどん語り、どんどん広めていくことを決意した。ここでいうヒーリング・エクササイズとは、肥田式強健術という過去の道術をベースとし、中身(実行原理)を独自に調整・解釈し直した、本当に効く新しい心身錬磨法のことだ。
 盈満[えいまん]の水は一滴を加うるを忌む、という。君の心無き行為は、これまで様々な誹謗中傷にじっと耐え、沈黙を守り続けてきた私を、自ら課した封印より期せずして解き放ってくれた。
 君(たち)がいなければ、私はこの先もずっと沈黙を押し通していたかもしれない。そして、さらに多くの人が道に迷うのを看過し続け、春充と共に宇宙的な罪(人を真理から遠ざけること)を重ねていったかもしれない。
 トゥリマカシ(マレー語でありがとう)。

◎さて、読者の皆さん。これがヒーリング・アーツ流の「ヒーリング」だ。
 私は、無名氏(ら)に対し、今、心の底から感謝を感じている。
 皆さんも、何だかウキウキ楽しくなってきたことと思う。
 さあ、これから強健術(ヒーリング・エクササイズ)を、ヒーリング・アーツの一環として、真剣に求める者、縁[えにし]ある人々に、どしどし伝授していくぞ! 注)
 合掌し、かしわ手を打ち、祈りの態勢に入りつつ、共に力強く唱えよう。「樂(たのし)!!」と。

注:無名氏(ら)も是非来なさい。抜けてしまった腰を、まずいったん解体し、パーツをきれいに磨き、整え直し、入れ直す方法を教えてあげる。鋼鉄板の撥条[バネ]のように働く5つの腰椎を中心として、CNS(Central Nervous System=中枢神経系)そのものに絶妙な超微細振動を起こすコツを体得すれば、あなた方の光り輝く自然本来の姿が、あなた方自身の内面から神秘的に立ち顕[あら]われてくるようになる。その神の如きあなた方の裡なる聖性に対し、私は両手を打ち鳴らし、うやうやしく礼拝することだろう。

◎次回からは、マレーシア巡礼(及び休暇)の土産話を少しく物語ろう。深刻にならないよう、エソテリックなジョークなども交えつつ。
 5〜6月のインドネシア巡礼が悲壮感に満ちたものとなったので、今回のマレーシア巡礼では一貫して楽しく、明るくやることを、私も妻も徹底して心がけた。巡礼と同等の真剣さをもって、たっぷり遊びまくり、妻のショッピングにもしっかり付き合って一緒に楽しみもした。
 私の生き方・価値観は、肥田春充とは全然違う。肥田春充は、妻と一緒にショッピングを楽しんだりはしなかったと思う(呵々大笑)。違って当然だし、違わなければならない。肥田春充がいくら偉大だからといって、その(お粗末な)コピーなんか、宇宙はまったく必要としていないのだ。肥田センセイは・・・とか、肥田センセイならば・・・、などと引き比べて他者を判断し、裁こうとすることを、金輪際、キッパリと、やめよ。

<2010.09.05 禾乃登(こくものすなわちみのる)>

※[ ]内はルビ。

@キナバタンガン河。深夜のナイトクルーズにて、川辺の藪に潜むアミメニシキヘビを発見・撮影。これぞまことのヤブヘビなり。