Healing Discourse

ヒーリング随感4 第7回 奉納スライドショー インドネシア巡礼:2010

◎しかし、私がヒーリング・アーティストと呼ぶあれらの人々は、一体何という桁外れな人々なのだろうと、読者諸氏もなかばあきれ返っていらっしゃるに違いない。
 然[しか]り。人というものの範疇[はんちゅう]を、あの人たちは遥かに超えてしまっている。
 私は自らをヒーリング・アーティストと自称することが、最近ものすごく恥ずかしくなってきた。
 観[み]習い、程度が似つかわしい。まあ、ずっとそういう気分、心がけでやってきはしたのだが。

◎かつて、井上仲子(ディスコース『通身是手眼』参照)の孫にあたる方から筋骨矯正術の手ほどきを受けた際、何度もお聴きしたのは、自分には祖母や父(井上健一)のような生き方はとてもできなかった、というお話だった。
 無理もない。
 朝から晩まで、来る日も来る日も、ひたすら治療施術に明け暮れる人生なんて、私には想像もつかないほど退屈と思える。しかも、それを50年以上も続けるのだ!

◎時代の変遷と共に、価値観も変わってゆく。そしてその変化の度合いは、現在、驚くべき速さにまで高まりつつある。
 このままでは人々の神経系が焼き切れる。否、すでに焼き切れ始めている。
 まずは、時代の流れに、レット・オフをかけねばならぬ。
 これは、独りではいささか骨の折れる、というよりはほとんど不可能なことだ。同志を広く募りたい。

◎加速しすぎた時代の流れにレット・オフをかけ、もちっとのんびり・ゆったり・マイペースのちょうどいい頃合いにチューニングする、そういうことを志す者たちが集って協働[きょうどう]すれば、時代そのものをヒーリングすることさえ、あるいは実際にできるかもしれない。
 私が語っているのは、「祈り」についてだ。
 これまでも多くの人が試みてきた。
 が、皆、「〜になりますように」とか「〜になりませんように」などなど、終始一貫して言葉だけで祈ってしまっていたのではなかろうか?
 それでは効果が薄い。というより、全然効かないだろう。

◎唯一、レット・オフのみが、人同士の意識を結ぶ。
 タッチorノータッチにて人同士が感応し合っている際には、レット・オフが共振し合っている。
 私は、レット・オフを使って超越世界へと意識を移し、マナ(霊的叡知と術。魂の糧)をメディスン・ハントする。それが私の聖業[しごと]だ。
 レット・オフを通じ、私は宇宙と心を通わせ合う。
 レット・オフにより、世界がこちらへと四方八方からどっと押し寄せてくる。それは一種の「圧力」として感じられる。意思の作用・反作用、とでもいおうか。

◎現在の文明が地球規模で病んでいる(不調和となっている)ことは、誰の目にも明らかだろう。それでは必要なことは?
 文明のヒーリングだ。

◎思い描いたイメージを現実化するための呼吸法というものが存在する。かつてある人から習い(その人は莫大な謝礼金を支払って某霊術家より学んだそうだ)、これまで何度か試してみたことがあるが、かなり効くから驚いている。
 やり方を簡単に説明すると、まず最初に祈願を具体的にイメージできるよう事前によく練修しておく。それができるようになったら、正座あるいは椅子に座って姿勢を整え、目を閉じ、上体を前に倒しながら口から息を強く吐く。ハーッ、ハーッ、ハーッ・・と、何度か重ねて行なうとよいだろう。もうこれ以上は吐けない、もう吐く息が少しも残ってない、と感じるまで徹底的に息を絞り出す。その、全面的に息を吐き切った状態を、姿勢を元に戻して、できるだけ長くキープする。もうダメだと思っても続ける。最初はすぐ息を吸ってしまうだろうが、何度も繰り返し行なっているうちに、長く耐えられるようになってくる。苦しさの波のようなものがあって、それを何度かやり過ごすうち、突如として心身の感覚/意識が全面的に切り替わる瞬間がやってくる。普段、バラバラで細く、途切れがちな心が、一つの太い流れに束ねられた実感。それに合わせるように願望を鮮烈に思い描き、それに向かって満身(満心)のエネルギーを集中し、無声で気合をかけるのだ。願望と一体となって響き合う実感が得られたなら、成功だ。すなわちこれは、全身の細胞が酸素を求めて猛烈に生きようとする、その生命への意思を統合し、願望と合致させるメソッドなのだ。
 願い事はよくよく厳選していただきたい。あなたが善かれと思って願ったことが実現し、その結果あなたは不幸になってしまった、なんてことにもなりかねないからだ。そういう実例を、私は実際にいくつも知っている。私はただ、情報として上記の手法をご紹介しただけであって、それはヒーリング・アーツとも龍宮拳とも何の関わりもないものであり、実験することは各自の自由だが、あくまでも自己責任において、だ。

◎水のごとく、どんどん低くなって愚かになってダメになって笑い物になって、さらにさらに落ちて堕ちて墜ち切ったところで、私は何と諸君、宇宙を貫く根本原理と、神経的に出合ってしまった。

◎何か、不快、不満を感じているもの、こと、何でもいいからありありと思い浮かべ、不平不満そのものとなり、それから全身でレット・オフ。手や目をレット・オフのスターター、ブースターとして活用する。
 ここまで説いてきた修法のごく一部でも修得ずみの人なら、直ちに行なえるはずだ。
 その結果どうなるか、人間の言葉では語ることあたわずだ。
 肝心なのは、レット・オフの際、最初の形、勢い、方向性、意図などを、ずっと崩さないこと。言い換えれば、レット・オフの形を保持し続ける。
 これにより、正と反のバランスが完全に取れ、こちらからあちらへ向かう時空と彼方より此方へと正反転しつつ還る反時空とがシンクロする。波の山と谷とがぴったり合わさり、互いに打ち消し合う感じだ。すると、「時間」という感覚そのものが消失する。主観的には、時間が消えたと感じられる。
 完全な静中求動において、時間は存在しないし、空間もまた存在しない。
 これを観念的にではなく、「生きる」のだ。舞うのだ。
 静中求動というのも、深めていくと物凄い境地が開けてくる。
 静の裡なる動が溢れこぼれて、生命[いのち]の舞を舞う。
 私がここで言う生命[いのち]とは、生き死にする表面的命のことではなく、生命の根源である永遠に不死なるものを指している。
 昔の武道家が無住心といったのも、この時空の超越性を表現しようとしたのかもしれない。レット・オフを「どこにも住んでないこと、状態」として感(観)じてみるのも、興味深い。

◎観の目においても、最初に鋭く視線を視点へと集約させ、ビーム状に絞ったその態勢(または器、あるいは形)を、レット・オフ後もずっと崩さないようにする。
 これは、観の目における究極的な静中求動の位相[フェーズ]だ。
 みることにおける、緊張と弛緩の超高度な統合。いわゆる「丘の上の見張り」または「観照」「内観」。
 私は、まだこれを数分以上保つことができない。あまりに清冽で強烈すぎる。光なき光輝の裡へと没入していくことは、頭脳の理解を絶する現象だ。
 これは腹の中が光っているのだろうか? あるいは脳脊椎神経が輝きつつ進化の源、則ち生命の源泉へと辿っているのか?
 私にはわからない。
「私は知っている、わかっている」と声高に唱える者たちには注意することだ。

◎まもなく秘仏スライドショー『チャロナラン』が年に1日、2時間だけ限定公開される。
 私たちと女神ランダとの霊縁が取り結ばれたのは、2010年度に赴いたインドネシア巡礼中のことだ(参考記事、『ヒーリング随感2』第1213回)。
 それから数ヶ月後のボルネオ巡礼中、キナバタンガン河にてヒーリング・フォトグラフ道が啓示的に開かれたのだが、それに数ヶ月先立つインドネシア巡礼の写真中に、ヒーリング・フォトグラフの萌芽を示すような作品はないだろうか、と、もう1度最初から編集作業をやりなおしてみた。
 総数数千枚のうち数十点、面白いものが残った。
 ジャワティーの産地として有名なジャワ島中部の山中、濃霧の中から忽然と立ちあらわれる古代ジャワ・ヒンドゥーの聖地、チャンディ・チェトーやチャンディ・スクゥ(両寺院とも、現在も実際に使用されている)。華厳経の世界観を建築的マンダラとして表現した仏教遺跡・ボロブドゥール。ヒンドゥー遺跡プランバナンの優美な尖塔群。バリ島の聖なる森。ケチャ・ダンス。火渡り。あるいは波打ち際がピンク色に輝くコモド島のピンクサンドビーチ・・・などなど、私が各々の場で感じた「質」が、まだ未熟なものとはいえ、写真の裡にこもっている。
 これらを、スライドショー『チャロナラン』奉納に先立つ序曲として、2部構成のスライドショーに仕立ててみた。

 スライドショー2に出てくるコモドドラゴン(野生)の次の、妻の写真の背景は、ドラゴンの獲物となった動物たちの頭骨だ。角があって呑み込めないので、唯一獲物の頭だけ食べ残すという。

 <2012.03.02 草木萌動(そうもくめばえいずる)>