Healing Discourse

ヒーリング随感4 第26回 続・祝祭

◎沖縄から今度は新鮮なシャコガイが届いたので、 龍宮館第一期の実現を記念し、アジケーナシムンを浸けることにした。
 まずシャコガイを適当な大きさに斬り、2〜3日間冷蔵庫の中で塩漬けする。沖縄・粟国島[あぐにじま]の塩を使用。
 その後、泡盛で塩をよく洗い落とし、ガラス瓶(あらかじめ泡盛でよく消毒)の中に上質氷砂糖&古酒(今回は9年もの)と共につけ込む。冷暗所に安置し、最初のひと月は、溶けた氷砂糖が全体によくまわるよう、瓶を時々柔らかく揺さぶるべし。
 半年で食べられるようになるが、熟成して本当の美味しさがにじみ出始めるのは2年後だ。
 沖縄の伝説的な料理人である山本彩香さんによれば、これはかつての沖縄で、辻(遊廓)の遊女が訪れてくる男をもてなした酒肴だという。
 山本さんの、あの別次元の食べ物ではないかとさえ思えるようなきめ細やかな料理の数々を何度も味わっておきながら、その「意味(料理に込められた女心)」が突然「生理的に」「わかった」のは、それから何年も経ってからだ。
 おれは本当に朴念仁(頑固で物分かりの悪いやつ)だなあ、とその時ばかりは心底思った。

◎「内地」では滅多にお目にかかれない新鮮さだったので、シャコガイの刺し身と貝汁も作ってみた。
 刺し身はざっと簡単にスライスし、醤油、コーレーグース(島トウガラシを泡盛に浸けた調味料)、ワサビすりおろし、かぼす(もし手に入るなら沖縄のシークヮーサーがより一層南国風情を高める。最近は、近所のスーパーでも時折見かけるようになった)でいただく。
 2年間酒に浸けても磯の香りが強く残るような貝だから、貝汁もたまらない。
 粟国島の塩だけを使って味付けし、シャコガイ切り身をさっとボイル、火を止める前にかいわれ大根をぶち込んでフィニッシュ。西表島で漁師[ウミンチュ]に教わった食べ方だ。
 一口召し上がってみたまえ。南島の磯の香[か]のエッセンスのごとき、濃密で官能的な味わいが、一気に南国気分を高揚させ、あなたを心躍らせることだろう。
 高木美佳のヒーリング楽曲『夜光貝』でも流せば、あなたはすでに細胞レベルで「水」だ。

◎VHEMT[ヴェーメント]という国際的ムーヴメントのことを、レフュージ生活中に知った。
 自発的人類死滅運動、とでも訳すのだろうか。 Volunteer Human Extinction Movementの略称だ。
 人類は自ら絶滅の道を歩む(子供をもうけない人生を意識的に選択する)ことによってのみ、地球環境に真に貢献できる、という主張を掲げるムーヴメント(非団体)らしいが、英語のサイトをざっと読んでみたところでは、自殺を勧めたり、人類が本当に全滅することを本気で目指すといった浅薄かつ狂信的なものではないようだ。
 子供を持たない、あるいは今以上増やさない(すでに子供を持っている人たちもVHEMTに参加できる)ことを通じ、大地の女神に帰依しようとする生き方。
 それは本質的に、私たち夫婦が互いの合意の元、子供をもうけない生き方を選択し、今日まで貫いてきたことと、期せずして合致しているから面白い。
 似たような考え方をし、実践する人々が、よその国々にもいたわけだ。ただし私たちは、人類は絶滅すべきとまでは思ってないが。

◎私たちが子供を持たないことにしたのは、地球人口が今や明らかに過剰であり、これ以上1人でも増やすべきではないと、2人ともまったく同じように感じていたからだ。今でもそう感じる。かつてとは比較にならないような強烈さで。
 (古い)神の教えに素直にしたがった人類は、産んで・増えて・地に満ちた。
 が、ケージ内のネズミみたいに増え過ぎて、異常な行動を取り始めた。
 にもかかわらず、まだまだどんどん、恐るべき勢いで増え続ける状態が、・・・・止まらないではないか。誰も止められない。今やどれくらいの数にまで達してしまったのか、もはや誰一人として正確に把握できない始末だ。

◎それでもなお、「1人でも多く増やせ」「(国民が)減ることは良くない。衰亡だ」「中絶は罪だ、殺人だ」などと声高に騒ぎ立てる者たちがいる。時代遅れ・時代錯誤も甚だしい。
 冷厳な事実・・・・「我々は、減少せねばならない」・・・と、私たち皆が、心静かに向き合うべきだ。
 私たちは、あまりにも増え過ぎてしまった。このことが人類という種にとっても、地球環境とそこに暮らすあまたの生き物たちにとっても、過重な負担となりつつあることは、もはや誰の目にも明らかだ。
 人類が抱える様々な深刻な問題に対し、あれやこれやの対応策が識者たちより提案されているようだが、「地球人口を(何世代かかけ人道的に、平和裏に)減らせばよい」とは誰も言わない。

◎人類は、外面的にも内面的にも完成された、輝くような調和と平和と喜びと希望に満たされた未来社会を目指す前に、まず自らの数を自発的に、大幅に、減らす必要がある。
 さもなければ、自然がもっと無慈悲なやり方で、私たちを「間引く」ことだろう。それは、自然の、生命の摂理にほかならない。
 大崩壊の前になすすべもなく泣き崩れる前に、自発的に、喜びと祝祭と祈りに満ちて、自分たちの数を自然に減らしていくことは・・・・できないものか。

◎子供を持つことによって(たぶん、あるいはもしかしたら)得られたかもしれない幸福とか感動などもろもろの体験を、女神にお返しするつもりで、捧げた。そのように、私たちは、子供を持たなかったことを「認知」している。
 他の人たちにも同じことをしろと言っているわけじゃない。誤解なきように。
 残るべくして残るブラッドライン(血統)も、当然あるだろう。
 各人の、<生命の自由(生の権利と死の権利)>観に属す微妙な問題だ。口出しは一切したくない。
 私たちは、「(自分たちの都合で)子供を持たない」のではなく、「地球のために持たない」と決め、実行した。
 見返りなど、一切期待しない。

◎結婚したら産むのは当然、といまだに多くの男女が信じ込んで疑いもしないことには驚き呆れる。よっぽど強烈にコマンド(このように信じなさい、という無意識への指令)がすり込まれているのだろう。
 ある人はこう言った。「それは、アフリカなどの悲惨な状況の国では子供を産むべきではないけれども、安全な日本で育つ子供は幸せなんだから産むべきだ」と。
 ああ、「私(自分)の子供」と「あなた(他人)の子供」を、あなたはいまだに区別していらっしゃるのか? 
 子供とは元来、誰の子であっても「子供」だろうに。

◎昔、最初に結婚した当初、会う人ごとに「赤ちゃんはまだ?」などと尋ねられて辟易[へきえき]したものだが、なぜ子供を持とうとしないか詳しく説明しようとすると、相手はいつもびっくり仰天したような顔をし、何たるへそ曲がりよ、偏屈な世捨て人よ、変人よと、私の話の腰を折り、非難・反論・説得にこれつとめるのだからたまったものではなかった。
 ところが最近は、年配の女性などに(子供について)尋ねられて、(また叱られるのかなあと腹をくくりながら)持たない生き方を選択したと告げると、意外や「まあ、賢いわねえ」「えらいわあ」などと感心されたり褒められたりするようになった。面白いではないか。
 諸君、時代は確かに大きく動き、変わりつつある。
 家族が崩壊し、親が子を虐待し、セックスすら知らない中年男性が増え、子供が子供を殺す異常な少年犯罪がしばしば世間を驚かせ、女たちは女同士で愛し合うようになり(知らぬは男ばかりなり)、人々は活発に生きる気力を失い始めた(鬱病の蔓延など)。
 これと似たようなことが、狭いケージ内でネズミを増えるがままに任せておくと、起こるそうだ。

◎VHEMTを契機として思ったのは、子供を持たない生き方を外面的な活動や仕事に当てはめてみたらどうなるか、ということだ。
 私の場合、これまでに得た莫大な(霊的)富を、未来へとつなぎ伝えていく(伝えようと努力する)・・・・「義務」から・・・・今後、まったく解放される・・・?
 今後何をやろうか、と考えていたところだったから、この新しい発想法は結構衝撃的で面白かった。
 なあんだ、ヒーリング・アーツを先まで残すためには、といったいわば組織版の子孫繁栄についても、おれは一切気にかけなくていい(かもしれない)のか。
 そのように認知を書き換えてみたら、たちまちものすごく<樂>になったから、知らず知らずのうちにかなり「背負い込んで」いたのだろう。ヒーリング(統合・止揚)という観点からみると、<樂>であること(状態)が、常に正しい。

◎龍宮拳を面白い、素晴らしいと共感する人がいるなら、一緒に楽しもう。
 が、継承とか伝承とか、そういった雑事からは完全にフリーな状態で、だ。
 強い-弱い、うまい-へた、高い-低い、勝つ-負ける、そういった二元性に属する諸々の事柄について云々するのも、一切ごめんこうむりたい。そういうのは、まもなく時代遅れになる。
 過去とも未来とも訣別して、ただ現在のこの瞬間にすべての注意を集めよ。
 岡本太郎のいわゆる「瞬間瞬間に爆発し続ける」とは、まさしくこれだ。

◎常に最大限のパワーを10分間、絶え間なく満身から発し続けようとして実際に開始すると、必ず無意識のうちに力をセーブしているものだ。長丁場なんだから力を温存しておかねば、と体が考えているかのように。
 1分間でも、あるいは10秒でも、やはり「全身全霊」(爆発)になりきり続けるのは難しかろう。いや、そもそも「爆発」とは何か、さえ曖昧かもしれない。
 が、今のこの一瞬だけでいい、後先のことはもう一切考えなくていい。この瞬間、もう何一つ温存(保存)しようとすることなく、全部手放して丸裸の全身一丸となり、爆発し切ることなら・・・・できそうだろう?
 その、全面的爆発の今、この瞬間を、次々と爆発し続けていくことで、「瞬間瞬間に爆発し続ける」ことが実際に「できる」ようになる。
 最初は一瞬から練修を始め、一瞬を少しずつ連ねていく(一瞬の引き伸ばしにあらず。毎瞬毎瞬がトータルに新しい)。これはただならぬ「超状態」だ。決して焦ることなかれ。
 要は、レット・オフに次ぐレット・オフに次ぐレット・オフ。
 無住心とか不動心といった名で武術界では古来よりよく知られた状態だ。

◎龍宮館の件がひとまず片付いて、さあ、これから何をやるか?
 まずは、友人たちからの要望[リクエスト]もあり、来年1年間の期間限定で「龍宮拳研究会」を<遊ぶ>ことにした。極めて真剣に。誠実に。
 そもそも龍宮拳とは一体何なのか、私たちがより調和的な人生を送る上においていかに役立つのか、私ですらその全体像を把握しているとは言いがたい。龍宮拳のマナの読み解き作業と並行して、いわば龍宮拳のアイデンティティを確立するプロセスを、来年1年間をかけ、グループで推し進めていこうと思っている。
 もちろん、これまで通り、(自らの心身と魂を実験室[ラボラトリー]としての)研究過程で得られた普遍的&重要と思われる内容に関しては、公開を原則とする。
 龍宮拳を体験・体感してみたい方のための、「公開研究会」も今後定期的に開催していくつもりだ。詳細は後日、本ウェブサイト内でアナウンス予定。

◎龍宮館の日常的光景をスライドショーにてご紹介する。

 長老猫スピカは、レフュージ中も龍宮館へ引っ越した後も、常に泰然自若として大物ぶりをみせつけ、その兄弟猫マナも少し痩せはしたが、龍宮館にすぐ順応した。
 マヤは当初、表情が硬く、呼びかけても反応が鈍かったのだが、やがて龍宮館になじむにつれ、元の活き活きした光が目に戻ってきて、活発に遊び始めた。
 すでにご承知の方も多いかもしれないが、マヤは肩乗り猫である。しかし、人間の肩に乗るよう教えたり、しつけたりしたことは一度もない。
 マヤを迎える少し前から、「もし今度新しく猫を飼うとしたら、自分から肩に乗ってくるような猫がいいな」と妻によく話していたから、妻も驚いている。

<2012.11.01 霎時施(こさめときどきふる)>