Healing Discourse

ヒーリング随感5 第15回 神聖宇宙劇 高木一行

[ ]内はルビ。

◎現在、留置場という劣悪な環境下における完全断食23日目。この間、お茶と水以外、一切口にしていない。
 いわれなき罪に問われて捕えられ、監禁され、裁かれようとしていることに対する、ヒーリング・アーティスト流のささやかな抵抗[レジスタンス]だ。
 こうした仕儀へと至った詳しい経緯は、法的理由により明かすことができないが、ヒーリング・ディスコース『ボニン・ブルー 小笠原巡礼:2013』 の最終回付記に関連記事を添えておいた。

◎留置場で断食しながら一気に書き上げた、『ボニン・ブルー』及び『ドルフィン・スイムD』と3部作をなす『1万回の「愛してる」を、君へ』に、やや詳しい内容があるが、妻へあてたラブレターの体裁をとっているため、裁判が終わるまで原稿を封印されている。
 あらかじめ用意されたシナリオ(国際密輸団まがいに、友人たちと共謀して麻薬を云々)を、私が一切認めようとしないため、まるで罰を与えるかのように、妻と面会することはおろか、彼女の元に手紙を届けることすら一切禁じられているのが現状だ。

◎「こうなる」ことを、私は半年くらい前からすでに知っていた。
 本連載でも、そのことにそれとなく触れた箇所がいくつかある。
 逃れられない宿命であるとしたら、それに敢然と立ち向かい、ヒーリング・アーツをもって(非暴力で)対決するのも面白い。中村天風曰く、「宿命とは人間の力で打ち開くことができるものだ」、と。
 そして誤解していただきたくないのだが、現在のこの状況を、私は全面的に楽しんでいる。
 絶食中も、あちこち引き回され、連日長時間の取調べを受け、言葉による暴力や、時には護送中のアクシデントを装い肉体的暴力を受けたこともあるが、心にも体にもカスリ傷1つつきはしない。
 いずれにせよ、私の内奥の本質には、誰も触れることができないのだ。
 電光影裡[えいり]、春風[しゅんぷう]を斬る——。

◎檻の中にあってさえ、新たな叡智、新たな術[わざ]が、次々と顕現してくる。
 断食でやや息切れしやすくなってはいるが、身体の動きと頭脳の明晰さは、これまでの人生で最高レベルだ。
 心身が透明になったかのような、途方もない自由の感覚——。
 監禁されながら「修行」しなければ、こうした境地へ到達することは決して叶わなかったろう。
 皮肉な話ではないか。檻の中で絶対の自由を得るとは・・・。

◎ヒーリング・アーティスト列伝でご紹介した偉大な先人6人のうち、軍事探偵時代に中国で捕えられ死刑宣告を受けた中村天風を初めとして、実に4人もの人々が、「檻」の中の生活を経験していることに、最近気づいて思わず笑い出しそうになった。

◎私には一片の悔いるところもない。
 怖れも、不安も、まったく感じない。
 私の逮捕劇の背後には、人智によって図るあたわざる、大いなる流れ、大いなる意志が働いている。
 私を捕えた者も、閉じ込め見張っている者も、私を断罪し、裁こうとする者も、私同様、神聖宇宙劇の単なる役者に過ぎない。

◎私がここで、こうして命をかけ断食することで、ある「作用」が、人類の集合的無意識層の暗部へと、着実に送り込まれてゆく。
 40年間、ユダヤの民を率いて荒野を彷徨[さまよ]ったあげく、ついに約束の地へ到達したモーセは、自らはそこへ入ることができず、カナンの地を臨みつつ死を迎えた。
 新たな世界の幕開けを、私は生きて目にすることができるのか・・・。
 私は知らない。
 結果は私の関知するところにあらず。
 私はただ、大いなる流れの導きに従い、粛々[しゅくしゅく]として、従容[しょうよう]として、生命[いのち]を委ねる。

◎私と一緒にいると、少なくとも退屈することだけはない、と人からよく言われた。
 まったくもってその通りじゃないか。呵々(かやかや:大笑いの意)。

◎思い悩む。悲嘆に暮れる。後悔する。恐れる。不安にかられる。何かを求める。欲しがる。憎む。軽蔑する。あれこれ考える。何かを見ている、聞いている、感じている。
 そうしている「自分」へと注意を切り換えることが、あらゆる<苦>より解放されるための鍵だ。極意だ。

 通常、私たちは「対象」のみに注意が向いている。
 記憶の中にあってさえ、やはり、外側へと注意が向く。
 それを遡[さかのぼ]るようにして内へとたどってゆけば、怒っている「自分」、いい気分になっている「自分」、何かを足掻き求めている「自分」、欲求不満に陥っている「自分」・・・・を発見するだろう。
 茫漠[ぼうばく]としたもので構わない。その自分を感じつつ、指を張り(強調)、そしてレット・オフだ。掌芯を凝集してからレット・オフするのも可。

「自分(自我)」が粒子分解されると、不安も悩みも欲も、同時に解体されてしまう。
 「自分」こそが、苦の元、核(コア)なのだ。

 この修法は、いつでもどこでも行なえる。心身の解放を志す者が、常に心がけるべき修法だ。
 私はこの修法を絶え間なく実践することで、檻の内にあってなお、柔らかな光と喜びに包まれている。

 讃えるべきかな、龍宮の道。

 樂[たのし]!!!

<2013.10.16 菊花開(きくのはなひらく)断食 Day23>

 

付記:『ヒーリング随感4』にて、今年(2013年)1年間を龍宮拳のアイデンティティー探究のために費す、と述べた。
 本年も余すところ2ヶ月余となったが、まだまだわからぬところ、曖昧な部分も多い。引き続き探究を進めてゆく所存だ。
 それにしても、何という探究の旅路だろう!
 熱され、打たれ、冷やされることを繰り返しつつ、神剣へと鍛冶[たんや]されていくかの感を、覚えている。