Healing Discourse

ヒーリング随感5 第23回(最終回) 最後のあいさつ

◎留置場というところは、怒りや絶望が渦巻き、暗い波動が充満する場所かと思いきや、意外にサラっとした感じで、重苦しさはあまり感じられない。
 諦[あきら]め・・・・は、ある。が、皆、努めて明るく振るまおうとし、各房内から頻繁に笑いが起こる。
 むろん、絶望と失望のあまり、狂気の泥沼に沈み込んでゆく者も、時にはいる。つい昨夜も、誰かがボーダー(境界線)を踏み越えて発狂したか、わけのわからぬことを甲高い声で盛んに口走っていたが、いつの間にか「消えて」しまった。
 諦め、手放しのヴァイブレーションが深く深く浸透している留置場は、しかし、ヒーリング・アーツの基本にして極意でもあるレット・オフを修し、練り磨くには最適の環境といえる。
 レット・オフと諦めには、相[あい]通じ合うところがあるからだ。
 ただし、前者はあくまで積極的、後者は消極的、だが。

◎ここ大阪府警本部の留置場では、毎朝6時30分に起床(前いた所では起床時間が7時だった)。
 その後直ちに寝具をたたみ、房外の収納庫へ運んでいって収める。
 監房へ戻るや、ホウキと雑巾2枚を渡され、まず部屋を掃き、次にトイレと部屋の床を拭き掃除。
 私は2人部屋を独りで清掃しているが、2人がかり、3人がかりの他の房よりも大抵早く済ませる。
 掃除が終わった者から、「洗面」に取りかかるが、コップなんて便利なものは与えられないから、たった今、トイレや部屋の床を雑巾で拭いた手で、冷たい水を受け、口をゆすぐのだ。
 ケッペキ症の人にはとうてい耐えられないだろうが、私は「そういうの」が意外と平気だ。
 布団のシーツも、こちらに来て以来、1度も交換されないが、「そういうの」もまったく気にならない。
 20代前半、東京で下宿生活をしていた頃は、年がら年中「そういう」感じだった。

◎ある朝の洗面タイムのこと(ちなみに洗面は1日2回)。歯磨きしている私に1人の看守が近づいてきて、声をひそめていわく。
「長いこと食べへんで大丈夫なんか?」
「そりゃあ、このままだと死ぬでしょうね」。
 すると、アハハハとさも楽しそうに笑うから、
「その場合、ここの誰かが責任を取らされることになるから、気を付けたほうがいいですよ」。
 と言ってやったら、さっと顔色が変わり、真顔[まがお]となった。
 私が死ぬのは笑い事だが、自分に責任が及ぶのは重大事らしい。
 一時が万事、この調子だ。
 いろんなジュースが飲めるようになったはいいが、いずれも甘いものばかりなので、塩気のある飲み物、たとえば濃厚な野菜ジュースも選択肢[メニュー]に加えよと要求すれば、10日間近く「協議」して大騒ぎしたあげく、確かに濃厚ではあるが、「塩分不使用」とパッケージに明記された野菜ジュースを持ってきて、「ホラ、どろっとした野菜ジュースやで。飲み」ときた。
 そんなものは要[い]らんと理由を述べて拒絶したら、責任者がやってきて、「なんで飲まへんのや。飲まんと体が保[も]たん。な、な、飲んでェな」とひたすら哀願するばかり。
 オレの日本語がおかしいんだろうか。
 それとも、変則的な事態に即応できぬほど、連中の頭が硬直・機械化してしまっているということか?
 とにかく、マトモに意思疎通することがまったくできない。
 プラスチック容器にミネラルウォーターを入れ、常時房内に置くことを特別に許されているのだが、新しい水に交換する際、水道水がわずかでも混じると身体が塩素に対し拒絶反応を起こしてしまう。だから、「水道水で決して洗わず、新しい容器に新しく入れて欲しい」と毎回根気よく同じことを頼むのだが、・・・・いまだに容器をていねいに水道水で洗ってから水を入れる看守がいる。
 檻の「中」の同類たちの方が、「外」で見張っている看守どもよりも、よっぽどマトモで、人間らしく感じられるオレは・・・・今や立派なアウトサイダー、いやアウトローと呼べるのかもしれない。

◎「世界平和」なんて空疎なお題目を唱え、祈ることを、私は少し前にやめた。
 他の生命をないがしろにして、人間だけの「世界」が平和になることなど、絶対にあり得ないと気づいたからだ。私は今、「地球調和」を日々、真剣に祈っている。
 それは(私を含む)人類にとって、必ずしも都合のよいことばかりの道ではないのかもしれないが。

◎『ドルフィン・スイムD 利島巡礼:2013』のウェブサイト本アップ分をプリント・アウトして差し入れてもらい、全文を校正した。
 この方法で『ボニン・ブルー 小笠原巡礼:2013』など、未校正の文章すべてを手直しできるとわかって、非常に喜んでいる。

◎留置場でも、次々と新しい修法が示現する。
 ヒーリング・アーツを熱心に修している人たちのため、新修法の1手を、概要のみではあるが、分かち合いたい。
 太霊道霊子顕動法で、胸の前にて合掌した両手指先からブルブル細かい振るえが起こってくる。
 ・・・・ここまでは、ちょっと練修すれば誰でもできるようになる。
 が、その振動をそのまま拡大して外へ外へと表現しようとすれば、真の顕動へと決して至ることができない。
 そういうやり方では、太霊道開祖・田中守平が、「顕動は骨髄より発する」と述べた点が、永久に意味不明のままだろう。
 多くの人の顕動は、皮膚、腱、筋肉が振るえているだけだ。
 顕動法の始めに、手や腕の筋肉に力を込めるのは、筋肉を振るえさせるためではなく、その力を<骨>へと作用させるためなのだ。

◎合掌して行なう顕動法の基本方式を例にとって説明するが、掌の中央にある真点(東洋医学のツボでいう労宮穴)に軽く力を込めて、手掌腱膜が細かく振るえ始めた・・・・ならば、その振動を外部へ表現することなく、手指の<骨>へと、向け換えるのだ。
 そのためには、本随感シリーズで御紹介したアルテミス修法が大いに役立つ。

◎・・・・顕動だの、太霊道だの、田中守平だの、果てはアルテミスとか、ヒーリング・アーツの予備知識がない方々にとってはわけのわからぬ世界が一気に展開し始めて、さぞや面喰らっていらっしゃることだろう。
 あらかじめ述べた通り、この部分は、熱心なヒーリング・アーツ修養者のみを対象に記しているのであり、初めてヒーリング・アーツに接する方々は読み飛ばしていただいて結構だ。
 ただ一言、二言、申し上げておきたいのは、田中守平が書き残した太霊道断食法に従いつつ、私は現在断食修行&レジスタンスを続行中であり、守平が断食修養中に体得した太霊道霊子顕動法について言及するのは、決して的外れではないと思う。
 また、女神アルテミスの名を、私は決してみだりに使用するものではなく、アルテミス女神の源郷たる小アジア(現トルコ)へと巡礼におもむき、かつて世界七大不思議の1つに数えられたアルテミシオン(アルテミス神殿)趾を訪ね、有名なエフェスのアルテミス像を拝し、アントニウスとクレオパトラが歩んだエフェス(エフェソス)市街の遺跡を妻と共に裸足で巡った、その結果として、大いなる森の女神を自らの内面で感得するに至り、様々な修法を授かるようになったのである。
 ・・・・何? ますますわけがわからなくなった、だって?
 This is ヒーリング・アーツ、だよ。

◎話を戻そう。
 アルテミス修法にて、最初は指を「吸う」力を活用する。強く吸う必要はない。
 次は、中へ吸い込まず、外へ押し出しもせず、ただ指の断面の周囲全体をまんべんなく意識することで、断面の内へと「入る」。すると、指の内部に意識が自然に収まる。
 この際、単に「指の内部」ではなく、特に「指の骨」を意識するのがコツだ。
 指1本の内へと意識が入ると、その意識の内向が連鎖反応のように全身へと拡がってゆく。
 このようにして腱や筋肉の振動を<骨>へと作用させることができるようになると、骨髄が振るえ始め、それがやがて全身へと及んで、これまで体験したことがない繊細な自動(自律)振動が生じるだろう。
 と同時に、意識がググーッと内向して、自らの「最も奥」と感じられる場所へと、「入って」・・・・あるいは「引き込もって」、ゆく感覚が起こる。
 この状態を中国神仙術では「洗髄」と呼ぶ。

◎始めは微振動くらいで充分。
 ちょっとやってコマンド・オフすれば、少し遅れて骨の髄よりじんわりと発生し、満身を充たす深遠なる「効果」に驚くだろう。ものすごく気持ち良くなる。
 立っても、座っても、寝ても、できる。
 寝ころんで体をひねるなどして、つかえ、痛みが表われた状態にて、微顕動を手から起こすと、骨髄から発生した振るえが次第に及んでいって、骨格の歪みがどんどん正されてゆく。軽い痛み程度なら、その場で直ちに消えてしまう。
 顕動には、驚くべきことに、骨格の歪みを正す作用もあったのだ!

◎呼吸法にも、同じ原理が適用できる。
 息の圧力を筋肉や筋膜でなく、骨へと作用させることがポイント。
 肥田式強健術しかり。筋肉の緊張を、<骨>へと作用させてみよ。1つの型を1回やっただけで、その部位がポカポカ暖かくなる。
 女神アルテミスより賜りし叡智を用い、指をくわえてちょいと意識の方向性を引っくり返せば、簡単に骨へと意識を向け換えることができる。が、この修法を知らねば、とてつもなく難しかろう。

◎指の断面内に入りにくい者は、最初、軽く体内へと指を吸い込む力を使えばよい。
 慣れてきたら、指断面の周囲全体から、断面の内側へと、吸うのだ。
 周囲全部を同時に、均等に、唇で「感じ」さえすれば、内向は自動的に起こる。
 始めは、上下左右の4方向を感じれば、それで充分。

◎龍宮拳は、水と化し、波紋を舞う武術である、とこれまで述べてきた。
 が、留置場内で研鑽を重ねるうち、一打必倒の威力を発するためには、水だけでは不足で、火の要素も不可欠であることがわかった。
 水と火という対極によって、波(波形)は成り立つ。あるいは、水という媒体に波紋を起こす原動力が、火だ。
 このことがわかって以来ずっと、火の<教え>を祈り求めてきた。
 自らの裡[うち]なる火を、探してきた。
 それが、まったく思いがけない形で、骨の髄にある火を覚醒させる修法として顕現した。
 人がエネルギッシュになれないのは、力や動きを外へ発し、放ってしまうからだ。
 女神の秘法を用いて、力も動きも、骨へと内向させよ。

◎この先一体何が私を待ち受けているのかさっぱりわからぬが、本編の幕をこのあたりで引きたいと思う。。
 ヒーリング・ネットワークのウェブサイト用に私が記す言葉の、これが最後のものとなる。
『ドルフィン・スイムD』の第4部で、私は龍宮道の開門を宣言した。
 が、それはヒーリング・ネットワークをやめて、新しく龍宮道(門)なる新団体を興[おこ]すとか、龍宮道を人に教え始めるとか、そういった意味ではないので、くれぐれも誤解なきよう願いたい。
<生命の対等>という究極ヴィジョンに到達したといっても、それはあくまでも「私にとって」究極のヴィジョンであるというだけのことで、それを他者に強要しようとは一切思わない。
 人は、各々の道を、自らの力によって切り拓いてゆくべきだ。

◎「この場所」でなすべきすべてを、今やなし終えたと感じる。
 ただ、真っ白な世界に、すべての記憶と共に、溶けてゆく感じのみが・・・・ある。
 いや、白ではなく、これは黒なのか・・・・
 すべての光の色が集まっているという意味では白く、あらゆる色の混合という意味では黒い。
 そんな不可思議な世界。
 白と黒を共に越える白、あるいは黒。
 私にできるのは、決して留[とど]まらず、ひたすら流れ続けることだけ。
 何か「について」考えようとするだけで、その「〜について」が停滞の核[コア]となる。
 愉快じゃないか。
「留」置場にあって得た学びの総括が、「決して留まらぬこと」であるとは。

 さらば。愛しき人々よ。私が愛した世界よ。
 私は生命[いのち]の次なる段階[ステージ]へと、目を瞠[みは]りつつ、遷[うつ]ってゆく。
 安らぎと愛に満たされて。
 地球調和を祈りつつ。

——ヒーリング随感5・終——

<2013.11.17 断食 Day55>

 

付記:11月21日、大阪拘置所へ移された。取り調べが終わった者は、ここで裁判を待つのだ。
 拘置所というところは・・・読者の皆さんが「刑務所」という言葉で連想するイメージに最も近いものかもしれない。暖房のない冷え切った小部屋に放り込まれ、ずっと放置されている。
 さて・・・・それで、どうするか・・・・。
 ある夜、天地神明に熱き祈りを捧げ、進むべき<道>を指し示されんことを願い、『いや、神明とは、願い・求める対象にあらず』と思い直して、無条件の歓喜と感謝に満たされ、「樂[たのし]!!!」と思わず口にした、その瞬間。——ドドーン!!!と凄まじい大音響があたりに轟き渡り、内臓や骨の髄までビリビリッと振るえた。すぐ近くに雷が落ちたらしい。
 そして気づいてみると、勾留修業の総仕上げとなるような、呼吸と姿勢に関する新しい極意が、落雷の瞬間、私の心身にダウンロードされていたのである。
 とうの昔に捨てたはずの肥田式強健術も、新たな意味と意義を伴い、再び舞い戻ってきた!
 強健術創始者・肥田春充は、「腰腹間[ようふくかん]に生じた球状緊張の表面より、等量の圧迫力を創ると、球心の1点に集約して、中心力が発生する」と述べているが、その際集約させるべきは「陰圧」であること、そのための具体的方法(この最終回本文にもヒントが記されている)、さらには初学者が最短期間で体得へと至るための練修体系(カリキュラム)、龍宮拳への応用なども、一瞬にして「わかった」。春充が中心力を「気合」と呼んだわけも、中心力があらゆる武術の極意にして万芸の基礎といわれる理由も・・・自然に理会できる。
 これは・・・「超越的なる意志」からの、確かな<応[こた]え>に他ならないのではないか?
「息する」こと(呼吸)は、「生きる」ことに直通する。
 この、息と姿勢の極意を活用して、強く、健やかに、息せよ!・・・生きよ!・・・と。

 劣悪な状況下における絶食が60日を越え、さらに進むか否かを決めるクリティカル・ポイントへと至ったことを感じていた矢先の、出来事だった。
『1万回の「愛してる」を、君へ』にも記したが、断食を終了するとしたら、天地神明による明らかなサインが顕[あら]われ、同時に、私自身も納得できるハッキリした「変化」を確認できた時、と最初から決めていた。さもなくば、行き着くところ(死)まで、ひたすら突き進むのみ、と。
 が、まさか本当に、こんな劇的な形で「合図」と「変化」が同時に示されるなんて、期待も、想像すら、してなかった。
 雷が鳴ったのは、その日、1回限り。否、大阪に強制連行されて以来、今日[こんにち]に至る約3ヶ月の間に、それ1度きりだ。
 雷は単なる偶然にしても、私の裡[うち]に叩き込まれた新しい極意は、夢、幻じゃない。日々それを実践し、研鑽し、素晴らしい効果を実感しつつある。

 それにしても・・・・断食終了と決めたはいいが、留置場とはまた別の意味における劣悪な環境(明治時代そのままのシステム、設備だそうな。呵々)においては、「食べない」ことよりも、「食べる(再び食べ始める)」ことの方が、ずっとハードで大変だったよ。
 出される食事の1品1品に、犬みたいに鼻を近づけてクンクン臭いを嗅ぎ、おそるおそる口にして、ちょっと咀嚼[そしゃく]すると・・・体に合わないものは、自動的にペッと吐き出される。
 そのようにして、1食にうどん1本くらいから始めて、わずか2週間ほどで、大抵のものを食べられる状態にまで、強制的に戻した。
 が、前述したように、かなりキツかったね。他の人には決してお勧めできない。ちょっと多く食べても、少な過ぎても、内臓諸器官が急発進・急停止したみたいになって、最初の頃、ひどい便秘と下痢を繰り返した。
 しかし、それも1週間ほどで適応・克服し(新たに得た極意[マナ]がなければ不可能だったろう)、今では断食前よりもかえって消化・吸収力が旺盛となっているのを感じる。

 2013年冒頭における私の抱負、希望は、以下の如きものであった。

  1. 私の元で学ぶ人々が自覚を深め、自立を志[こころざ]し、各々独自の道を切り開き始めること。
  2. 龍宮巡礼の始まりの地である沖縄・久高島へ「御礼参り」を兼ねて巡礼し、1つのサイクルを完結すると共に、新しい「生命の輪(ホイール・オブ・ライフ)」を回し始めること。
  3. 新たな可能性を秘めた地、小笠原への巡礼。
  4. 巡礼の成果を、生命[いのち]の紀行として作品化し、神々に奉納すると共に、人類と分かち合う。
  5. 野生イルカと海中で霊的にコンタクトし、生命の法と術[わざ]について尋ねる。
  6. 龍宮拳のアイデンティティー探求。そして、龍宮拳独自の概念[コンセプト]、術である「密珠」の検証。
  7. ある程度長期間に渡る断食修業。
  8. 「ヒーリング・ネットワーク」をさらに越えて進むための、より奥深い、根源的なヴィジョンの探求(ヴィジョン・クエスト)。
  9. 写真術(ヒーリング・フォトグラフ)、武術(龍宮拳)に続く、ヒーリング・アーツのさらなる応用・展開。自分自身の新しい道(生き方)を切り拓く。
  10. ヒーリング・ネットワーク運営等の一切を友人たちに委ねる。

 ・・・・あれれ? 「檻」の中で貴重な時間を無駄に過ごしたかと思いきや・・・・・・、一生実現しないのではと危ぶまれた1を始めとして、正気の沙汰[さた]とは思えぬ5、贅沢の極みたる8や9を含め・・・・・・、ほとんどすべてが、・・・・すでに現実化しているではないか。
 9については、食材の生命[いのち]を最大限に活かし、敬意と感謝を表わすための、料理と器(陶芸)に関する洞察、及び様々なアイデアを、断食中に得た。
 これまでどうしても再現できなかった、あの店、この店の料理や、あの国、この国の食べ物のレシピが、ちょうどマナ(修法)と同じ要領で閃くようになったので、妻に(弁護士経由で)伝え、いくつか試してもらったら、何と、いずれも見事に成功したそうだ!

 どうやら・・・現段階においては、私は何もせず、何も口出しせず、1人ゆったり読書でも楽しんでいた方が・・・・物事がどんどん進み、豊かに発展してゆくようなのだ。
 事実、私が逮捕されて以来、外部の人々との新しい出会い、つながりのネットワーキングが、驚くべき勢いで、留まるところを知らず、拡がりつつあるという。

 というわけで、ただ今「無為の為」の修業中という次第。「すること」から「在[あ]ること」への移行、そして、<体>に対する<心>という2大テーマについて、私は今、学んでいるところだ。
 求道者(道を求める者)から、道楽者(道を楽しむ者)へ・・・・。

 龍宮世界の門[ゲート]のシンボルとして、螺旋とか、渦巻きが頻出した2013年・蛇の歳だったが、顧[かえり]みれば本連載第1回にてご紹介したエラブウミヘビの薫製[くんせい]の姿に、すでに龍宮の扉が象徴されていたことがわかる。
 蛇とは・・・・とぐろ(螺旋)を巻くものたちだ。

 樂[たのし]!!!

<2013.12.31>