Healing Discourse

ヒーリング・マーシャル・アーツ 龍宮拳伝書 第一巻 第六箇条 肩のこと 其の一 横から縦へ

 肩を持つ、という。
 一般的には味方する、といった意味合いで使われている。
 この行為を、身体を実際に動かしながら、一緒に検証していこう。

 例えばあなたの前に立っている人の「肩」を、後ろから「持つ」とする。  
 龍宮拳のシャドー・トレーニングはちょっと変わっている。
 そうした場合、あなたならどのようにするか、この文章を読み終え次第、立ち上がり、前の人の後ろ姿をありありとイメージしながら、実際にやってみてほしい。
 ・・・・・・・・・・
 さて、あなたは、どこに手を置いたろうか?
 肩が凝る、とよく私たちがいうところ・・・・?
 筋肉でいうと、僧帽筋(写真参照)?

僧帽筋写真三角筋写真

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 私はディスコース・シリーズの当初から、僧帽筋へのヒーリング・タッチを、肩へのヒーリング・タッチとして説明し、示演してきた。何しろ、そのようにしないと人々と意思疎通・共振できないのだから致し方ない。
 と同時に、僧帽筋は肩の筋肉ではないことについて、再三注意を促してもきた。
 肩の筋肉は、これまで述べてきた通り、三角筋だ。その伸縮により腕の上下動を司る筋肉。

 その三角筋の形を、上掲写真も参照しつつ、ヒーリング・タッチでよくよく感じ取っていきなさい。
 これまでにもやったことがあるかもしれないが、このたびはそれを上からでなく、横から感じていくのだ。なお、後で「横を縦へ」なる概念[コンセプト]が出てくるが、今やっているこれ(横)と混同しないように。
 三角筋は、どの骨と付着しているか、解剖図や解剖模型と照らし合わせつつ、自らの生きた身体を通じ探っていくことは、非常に助けになる。

 そうやって三角筋を「肩の筋肉=肩」と改めて認知し直してみて、何も感じない、何も起こらないという人は、いまだ要点をつかんでない。
 肩というものが、僧帽筋から三角筋へと処を替えたとすれば、何も変わらない、何も感じないはずは、まさかあるまい。
 変わらないとしたら、それは頭脳が偽りの身体感覚を仮想的に生み出し、それで「肩を新しく感じた」つもりになっているだけかもしれない。
 仮想の身体に真なる感動は、起こらない。

 ただじっと静止しているだけでなく、時にその場所をなで回すなどしてタッチ感覚をハッキリ生じさせ、持続させ、その感覚が生じているのは具体的に皮膚のどこなのか、本当に「そこ」が触れ合っている、こすれ合っていると感じられるまさにその場所を、注意深く・根気よく探していくことだ。
 最初は小さな一部だけでも結構。それだけでも、あっと驚くような発見と気づきがあるはずだ。

 フォーミュラ化してみよう。

<フォーミュラ>
 肩の認知を、「横のもの」から「縦のもの」へと換えよ。

 僧帽筋がなだらかなカーブを大きく描いているあたりを、「横なる肩」として、大抵の人は認識している。
 これに対し、三角筋の筋繊維のルートに沿いながら、肩は縦である(立位時)と、認知を神経的に書き換える。言葉を換えれば、三角筋の体性感覚・存在感に基づき、「肩」という言葉の体感・意識を認識し直す。

 横を縦へ、換えるためには、横という認知それ自体を、自己滅却的にレット・オフすればよろしい。これまで自分が「肩」と思い、使ってきたその場所を、ちょっと凝集してからゆっくりレット・オフしていく。
 と同時に、僧帽筋(これまでの肩)とヒーリング・タッチした掌を、柔らかく滑らかに、体のフォルムにぴたり密着しつつ滑り降ろしていって、三角筋をすっぽりくるみ込むようにする。
 三角筋は前後の拡がりが見落とされやすい。注意。
 三角筋のすべてを、ヒーリング・タッチで意識化し、その筋繊維の方向に沿って意識を延べ拡げていく。
 (旧来の)肩の感覚、存在感そのものを、そこの形のなかみごと、掌でゆっくり流し、新しいところ(三角筋)へ移していくつもりで。

 今まで、「横たわって上から乗っていたもの」が、「両横からソフトにはさみこんでいる感覚」へと変わる。認知を90度換えれば。
 すると、つつつーっと「両肩」の間が気持ちよく爽快に「通っていく」。床から頭のてっぺんまで、太い円柱がまっすぐ体内を貫き立つ感じ。
 かなりの重さが足にかかっているように思えるのに(それだけずっしり安定している)、実際に足を踏み出すと、その歩みの軽やかさ・滑らかさはびっくりするほどだろう。泰山の重みと滑脱自在さとの驚くべき融合。
 三角筋の、ヒーリング・タッチによる覚醒と言語化(横から縦へ)が鍵だ。

 この状態で、足を上へ蹴(振り)上げながら、同時に誰かに突き飛ばしてもらうといい。最初は、やや強め、くらいで。
 ビクともしないことに、再び驚嘆するだろう。
 ところが、意図的に肩を横(これまで通り)にしてみると、もうあぶなっかしくてとてもダメだ。そうだろう?
 肩を縦にすると、目隠し稽古も断然、楽になる。自然にできてしまう。
 大地と共振しつつ全身一如の力を発することも、少し練修すればできるようになるだろう。その場合、上体は常に虚にして虚で使うように。臍の上下が互いに越境しないように。

 足を通って体内を上昇したエネルギー(力、勢い)が、手や頭へと移動していき外部へと発せられる、そんな誤った・あり得ない体内力学のイメージを抱いてしまったら(インストールしてしまったら)、本物の動きはいつまでたっても身につかない。有害なコンピュータ・ウィルスのようなものだ。そういうある種の霊的寄生虫(あなたのエネルギーを消耗させ、奪っている)は、レット・オフを使いどしどし駆逐していくことだ。

 肩の認知を換えるだけで、一瞬にして世界が変わる。
 嘘じゃない。本当だ。
 僧帽筋ではなく三角筋を、「肩」として認識し直すだけ。解剖学的事実でもある。
 すると、まるで別ものの身体世界が、突如、あなたの裡に啓かれる。
 強く腕をつかんでいる相手が、何気なく振り向くだけで、抵抗感なく吹っ飛んでいったりもする。
 ただし、そんな時も、みぞおちから上は、手も頭も、常に虚にして虚だ。

 肩の認知を替えることの何がすばらしいかといえば、「我流」を調律して正道に引き戻してくれることだ。
 例えば、何か、新しいことをやってみようとする。ヒーリング・アーツのどの術でもいい。
 あまり習熟してない術、あるいはこれまでやったことがない術がいい。
 それを練修しながら、自分の肩を同時に観察してみるのだ。
 ・・・・・・・・ちょっとやってみれば、いわゆる「肩に力が入る」とは、仮想の横の肩(僧帽筋)が、身体の縦の芯を直角にさえぎるように妨害している状態にほかならぬとわかるだろう。これが、「我流」の実体だ。
 あらかじめ三角筋を肩としてよく意識しておいたとしても、最初のうちはちょっと変わったことをやろうとするだけで、するりと元の場所(僧帽筋)に「肩」が戻ってしまう。これは、かなり驚くべきことだ。

 肩の力を抜くことの重要性は、武術でも、スポーツでも、芸事でも等しく説かれ強調される。が、肩の認知を直角に替えさえすれば、肩の力は自然に、最もいい感じで、抜け・満ちる。我流は自ずから調律[ヒーリング]され、全身のハーモナイズ度が一気に増す。
 この事実は、すでに慣れている、できていると思っている術、動きをゆっくりなぞりながら、改めて肩を横から縦へと認知し直していけば、よくわかる。できていると思っても、まだまだ我流が残っていた。それをヒーリングするだけで、さらなる熟達がその場で直ちに起こってしまう!
 肩の認知を自然(あるがまま)と合致させれば、万事において、より巧みに、よりやわらかくしなやかに、全身総出で、取り組めるようになる。すると、当然ながら、何事も急激に熟達する。
 龍宮拳は、常にこの態勢で稽古する。ゆえに、最速の熟達が起こる。
 師より以身伝身にて術を受ける際は、とりわけこの「肩のこと」が肝要となる。
 せっかく術の本質を伝えられても、それを仮想の肩により分断し、たちまち我流(自己本位の誤解・曲解)へと変質させてしまったのでは、後になって「わからなくなった」「できなくなった」と嘆くこと必定だ。

 それでは、再び、最初に皆でやった例のシャドー・トレーニングへと立ち戻ろう。
 この文を読み終わったなら、直ちに立ち上がって、(イメージ上の)前の人の「肩」に、両手を置くのだ。
 ・・・・・・・・・・・
 そこが、これからは、私たちが「肩(の筋肉)」として認知すべき場所だ。
 これからは、「(人の)肩を持つ」際には、上から僧帽筋に載せるのではなく、両サイドから三角筋を柔らかく包み込むように。
 これが龍宮拳式だ。

 こんな風に、龍宮拳は人の認知を神経的に書き換えることで、その人の身体を「できる」状態へとイキナリ調律してしまう。

<2012.01.12 水泉動>