Healing Discourse

ヒーリング随感2 第11回 抜苦与楽修法:FB

◎先日、広島で開催された3日間の相承会(体験・伝授の場)の折り、これまでディスコースで説いてきた修法をいくつかビデオ撮影した。その一部を、ウェブ用に圧縮した極めて粗い(情報量が少ない)映像ではあるが、参考までにお目にかける。
 ただ漠然と見るのでなく、宮本武蔵も重視した「観の目」を使って向かい合えば、ヒーリング波紋が全身で感じられるようになる。具体的手法は、「メドゥーサ修法」として、ディスコースの『ボルネオ巡礼:2009』や単行本『奇跡の手』などで、詳しく解説しておいた。
 メドゥーサ修法を使って観の目モードに入ると、ムービーの画像が一気に立体的かつクリアーとなる。そして、身体を媒体として表現される精妙ないやしの波紋が、「観え」てくる。

 最初、手に持ったグラスの(表面的)形を意識しておき、次に注意をグラスの中身(水)へと移す。頭で考えてそのようにイメージするのでなく、あくまで体性感覚に基づきつつ、どこ(何)に注意を注ぐかという意図だけを移し替える。
 すると、全身の固体感がスーッと失われる。水が人の形をとって立ち上がっている、そんな感じだ。
 この感覚は、術者の全身とヒーリング・タッチで触れ合っている者たち全員へと瞬時に伝わり、彼女/彼らも水に変わる。水と水が触れ合い、共鳴し合う。揺らぎながら、波打ちながら、受け手たちは自然に緩み崩れていく。

 水のように波打つ掌芯を密着させ、掌芯を常に掌の中心として意識しつつ、柔らかく流れるように手及び全身を循環的に使っていく。
 すると、受け手は身体内の流動・循環性が活性化し、ゆっくり流れ下るように崩れ落ちる。
 ちなみに、身体の循環性とは、体の一部にとってのある方向が、他の部分にとり正反対の向きである、ということだ。

 掌芯を中心とするヒーリング・タッチには、身体内の循環・流動性を導き出す神秘的な作用がある。
 それを武術方面で活用する実験も、我が国や中国などでかつて盛んに行なわれたことがある。
 水のような掌芯で、水としての人体と触れ合っていく。これは、身体内の水に波紋を送り込んで相手を腰砕けにする、やや武術的な応用法。
 
◎相承会では、写真撮影も行なった。
 写真1〜3は、『ヒーリング・アーツの世界』第3回で述べた「かしわ手の衝撃波」に関して示演したものだ。
 多数の手と術者の片手を重ねておき、これに術者がもう一方の手をパン!と打ち合わせる(写真2は打ち終わったところ)。受け手の背中と触れ合っている者にまで、衝撃波がハッキリ伝わってくる。
 かしわ手を打つ際も、手を水のように柔らかく、掌芯を中心として運用する。

写真1

写真2

写真3

 写真4~6は、前々回ご紹介した抜苦与楽修法の一例だ(私が補助者で、その隣の人物が術者)。
 術者は、体を捻ることで痛みが生じる箇所(ここでは左脇腹)を補助者に示し、補助者はそこと、反対側の右脇腹にヒーリング・タッチする。注)
 補助者が、注意を左手(痛みがある側)から右手へと移す。ただそれだけで、術者の痛みが細やかな粒子状に分解され始める。術者の表情の変化にも注目してほしい。

写真4

写真5

写真6

◎今回の相承会メニューには、抜苦与楽修法も含まれていた。「触れ合い」を通じ、この手法を以身伝身された人々から、フィードバックが早速届いている。
 
<報告1>
「苦を抜き楽を与える」、それを体現する修法をご伝授いただき、その驚異に目を瞠るばかりでした。
 私の場合、立位の姿勢から上半身を左に捻ると、背中の左側に痛みと引きつれが生じます。かつてゴルフの練修をしているときに、軟骨骨折をした場所です。
「果たしてこの痛みが消えるのだろうか」と思っていましたが、その疑念はすぐに吹き飛ぶこととなりました。
 まず身体を捻って痛みを出し、そこと先生がヒーリング・タッチでそっと触れ合われ、私は普通の姿勢に戻り、痛む場所と反対側の右の背中にもヒーリング・タッチしていただき、再び痛みの出る姿勢を造りました。
 先生が、痛みのある方から痛みのない反対側へと意識を移されると、突如いやしが起こり始めました。一瞬前まであった左の背中の痛みが、まるで微細な炭酸の泡が消えるように無くなってしまい、塊として感じられていた左の背中はフワリと緩んできました。それはほとんど瞬間的とも思える出来事で、「エッ・・・?! (痛みは)どこにいった??」という感じです。
 そして身体がゆっくりと心地よく動き始め、ほんの十数秒ほどで動きを収めると、身体を捻っても、痛みなどすでにどこにもありません。普通であれば、痛みなどは時間をかけて治していくものだと思うのですが(かつて腰痛のときにはそうでした)、「その場で直ちに」というのは見たことも聞いたこともありません。しかも私一人だけでなく、その場に参加されていた全員が同じ(痛みが消えるという)体験をしたのですから、疑いようもありません。
 あまりの凄さに、驚きと歓喜のため息が出るばかりで、まるで魔法にかけられたかのような不思議な感覚に包まれました。<M.K 男性・岡山県>

<報告2>
 首を回す、傾けるなど、あるポーズを取ると必ず起こっていた右首筋の痛みが、意識を真反対の左側に移した途端、ブラックホールに吸い込まれるように溶けてなくなってしまいました。あまりに呆気なく痛みが取れたので、「えっ!? そんなはずない・・・」と思わず疑いたくなるほどでした。
 相承会の中で、「これは暗示ではないのか? よく確かめるように」と先生からご指示があり、そう思い込んでいるだけではないのかと何度も確認し、実践していきましたが、その度に、明らかにそこに存在していたはずの痛みがなくなってしまうのです。しかもただ痛みが消えただけでなく、身体が柔らかく、波打つように粒子的に感じられ始め、裡側から流れが起こってSTMが自然に現われ、痛みが起きるような身体の使い方が根本から正されていくのを実感しました。この修法の「苦を抜いて楽を与える」という名称は、まさに文字通りの意味だと思いました。
 慢性的に起こる首筋の痛みを解消しようとして、これまでその箇所に何やかやと働きかけてきましたが、凝りが取れたと思ってもまたすぐ痛みが起こり、治っては戻りの繰り返しでした。抜苦与楽修法による痛みからの真の解放を味わってしまうと、意識をおくべき箇所が真反対にあるにも関わらず、痛みを何とかしようと無駄にあがきもがいていたことが、いつまでたっても苦(痛み)から逃れられない原因だったのだと悟らざるを得ませんでした。
 相承会後に、問題の箇所に何度も修法の実践を試みるうち、痛みが起こるはずの場所に痛みが起こらない、あるいは起こってもごくわずかにしか感じないほどに変化しつつあります。
 痛み、苦しみを自ら作り出している、ということをこれほど明快な形で、観念的にでなく生理的実感として味わったのは初めてです。単純明快な真理に気づけず、右往左往している自分の有り様を突きつけられたように思います。その苦から解放される道を示され、実践する度に、これこそが「救済」なのではないかと深い感謝の気持ちを噛みしめています。<M.T 女性・広島県>

<報告3>
 痛みを感じている時、痛みに働きかける時は終始その場所だけを意識し、どこまでも痛みの場所を中心として離れられずにいましたが、痛みの真反対の場所を意識すると、その間にある身体の裡に立体的な連続性が生じて、痛みから反対側へと粒子的な流れが起き、調和のとれた全身の流れとしてSTMが起きておりました。
 痛みのある部分とそうではない反対側とでは、ただ痛みのある部分のみに原因があるのだと思っていたのですが、無意識になっている事によって痛みを支えていたのではないかと考えさせられました。<K.M 男性・山口県>

<報告4>
 抜苦与楽修法を行なっていただいたとき、先生が痛みと身体的に正反対の部分に注意を移すと、痛みが精細な粒子状になって、反対の楽な部分へと流れこんで、溶け合ってしまうのを感じました。痛みは楽な部分と粒子的に融合して、新たな質感をもった波となり、身体が自然に動き出していました。身体が今までにない質の柔らかさに満たされ、もっとも自然な弾力を取り戻すように感じられました。
 今まで、痛みを感じたとき、まず痛みへと焦点をあて、それ自身をどうにかしようとしていました。不快、不調和な部分を感じたら、真っ先にその部分へ手をあて、重点的にヒーリング・タッチを行ないほぐそうとしていました。
 しかしその時は痛みが溶けて流れても、しばらくするとまたすぐに痛みは戻ってきてしまいます。痛みがどこにいったのか、なぜ同じ部分に舞い戻ってくるかなどまったく分かりませんでした。
 痛みを作り出していたのは、そもそも痛みそのものではなく、痛みとは正反対の部分であった!? 修法を実践していると、天地がひっくりかえったような感覚と、目が覚めるような理会が起こるのを感じました。病気になるのはその部分が弱く脆いから・・そのように当たり前に考えていましたが、実際は苦しい方ではなく、反対の部分が中心となり、あるいは過剰に動いて、痛みと病を形成していたのではないか? と感じました。
 実際に痛みと正確に真反対の部分へヒーリング・タッチを行なうと、その部分が粒子状に分解し変化してしまい、反対の部分は、もはや痛みでなくなってしまうのを感じます。相承会にて、抜苦与楽修法を実際に先生から直接伝授していただき、今までは「苦」と「楽」のどちらかしか意識できなかったのが、初めて両方の感覚が融合していく感覚を感じました。
 また、相承会では身体をたくさん動かしましたが、普通ならこれほど運動したら、痛い部分や、固い部分が何日か残ったりするのですが、身体が過剰に痛いといった感覚は全くなく、心身がバランスがとれているように感じられます。<Y.S 男性・神奈川県>

<報告5>
 抜苦与楽修法を行なうと、粒子状に流動的に痛みのある方から無い方へ裡で移動していく、吸い込まれていくような実感があります。それにつれ痛みもほとんど消えて無くなります。あまりにも簡単にあっさりと改善されるので、アレッという感じがしますが、体のバランスが取れ、均等になるのが感じられます。
 痛い部分と反対側に真に悪いところがある、痛い部分と反対側を治療すると治る、と昔誰かに聞いた覚えがありますが、内観的に自分の身体で理会出来たようです。
 こんな凄いことが瞬時に可能になるとは福音に違いなく、奇跡的です。どれ程の人が救われ、いやされるか、この術で世の中にどれだけ貢献できるか計り知れません。<J.S 男性・岐阜県>

<報告6>
 相承会中に抜苦与楽修法を行っていて一番感じたことは、自分の柔軟性がどんどん高まっていったことでした。これ以上痛くて捻られないと思っても、その反対側を意識すると、グニャーっと柔らかくなり、自分の限界を楽に越えていき、体がどんどんと柔らかくなっていくことに感・動しておりました。
 体を柔らかくしようと思って、ストレッチを行っても一向に柔らかくなったことはなく、ただ痛みを我慢しただけでしたので、とても驚きました。
 抜苦与楽修法を続けていくことで、苦を苦として捉えるのではなく、苦を楽として受け入れていくことができるようになり、身体を通した修養にも繋がっていくのではないかと感じています。<Y.W 男性・大阪府>

<報告7>
 今回、抜苦与楽修法を高木先生より直接伝授いただき、その効果に大変驚いています。
 人によっては「立つ」、「座る」、「横になる」という実生活の中での基本的な行為においても痛みを伴う場合があります。最近、私は歩くだけで右膝に痛みを感じていましたが、抜苦与楽修法を行いますと、それが瞬時に溶けて、歩行が楽になりました。左右同じところに痛みがある場合でも片方ずつ修法を試してみて、大変効果的でした。
 身体のいろんなところで行なってみて、これは「痛み」だけの問題に留まらず、身体運用における「意識」の問題ではないか・・・・意識にはある種の性質があるのではないかと感じました。
 人間の意識というのは、建物の構造の如く、否、建物における配線・配管のように、立体的に、精密に用いられなくてはならないのではないか?
 漠然と身体を認識するのではなく、身体部分のそれぞれの場所に配すべき意識というのはちゃんと決まっているのではないか?
「痛み」とは、身体の動きにおいて、特定の部分に対し、意識が短時間に極度に集中した(偏った)結果、生じるのではないか? 
 等々、現状では纏まりを得ませんが、感じています。<H.O 男性・埼玉県>

<報告8>
 高木先生に抜苦与楽修法を伝授していただいてから、前屈でのストレッチで修法を行なってみました。
 前屈するとまず左の脚裏が痛くなってきたのですが、それとちょうど反対の左の股側に意識を移してみると、ギュッと固まって痛かったところがドローっと溶けていき、どんどん身体が伸びていきました。
 ある程度伸びると、また別のところが痛くなってきたので、その反対側を意識するとまた身体がしなやかに伸び、痛みが消え去ってしまいました。
 こんなにあっけなく消えてしまってもいいのだろうかと思うほどの見事さで、本当に驚いてしまいました。そして、ストレッチを終えると、脚の中がスーッとして、非常に通りが良くなっており、脚が生き返ったかのようでした。
 ストレッチというと、身体の固い人にとっては痛みに耐えなければならず、少なからず苦しさを感じてしまうと思うのですが、抜苦与楽修法を行なうと、痛みが出てもすぐに楽になってしまい、とても気持ちよくストレッチを行なうことができ、ただちにそれがヒーリングになってしまうことを味わいました。<N.S 女性・神奈川県>

<報告9>
 身体を捻って背中に痛みをつくり、反対側へ注意を移していくと、痛みと反対側の部位から細やかで粒子的な爆発が起こり、その波が凝り固まった箇所を内側から引き延ばし、開いていくSTMとなって顕れてきて、その解放感にしばし陶然としてしまいました。
 さらに驚きましたのは、右前腕を捻って痛みを作り、修法を実践した時でした。右腕と左腕、離れており、一見関係などないように思えるのですが、左腕に注意を移したその瞬間、やはりフワ〜っと全身が解放され、たちまち楽になっていきました。身体のバランスとはここまで精妙厳密なものなのかと認識を新たにした瞬間でした。
 また、ただ心身が解放され、気持ちよいというだけでなく、「痛み、苦しみ」とどう向かいあっていけば良いのか、という人生の根本的問題に光が差し込んだように思えます。
 抜苦与楽修法を伝授いただいてから、痛みを感じる様々な状況で実践していますが、人生そのものが新鮮な流れを取り戻し始めたように感じています。<R.S 男性・神奈川県>

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◎上記の報告は、いずれもレット・オフがある程度できている者から寄せられた。
 抜苦与楽修法の効果を引き出すコツは、意識を痛みの反対側へと移した瞬間に始まる「ほどけ」の波に、常にオフ感覚で乗り続けていく(同調する)ことだ。
 起こっていることを「見よう」としない。どこかの部分に目を向けようとしない。そこを見つめようとしない。見ようとして目に力が入ると、たちまち裡なる流動・循環性がこわばり、ぎくしゃくと重く、鈍くなる。これは、目を閉じていても同様。
 目を開放せよ。これは、ヒーリング・アーツのあらゆる修法に共通する、<熟達の秘鍵>だ。
 起こっていることについて、体験のさ中で考えようとしない。その時は、「それ」に全面的に任せ、委ね切ってしまう。慈母に抱[いだ]かれる幼子のように、安心し切って、そこに溶け込んでいく。これまでの頑なな自分が、ふわりと春霞のように、自然にほどけていくことを容[ゆる]す。
 これが、レット・オフだ。レット・オフとは、<容し>だ。
 それでも、古くからの癖でつい「見て」しまっているのに気づいたなら、・・・・・その見ることを強調してレット・オフ。
 すると、「見る(部分に意識が集中する)」ことが、「観る(全体がトータルに意識されている)」ことへと変容する。
 目を閉じて内面を視覚的に感じようとする時も、「見る」のではなく、「観る」ようにする。

◎痛みの反対側を意識することで発生するオフの波に、どれだけ乗り、委ねられるか。それが修法成功のポイントだ。
 レット・オフし続ければ、STMが起こってくる。ギュッとこわばっていたものが、ほどけ緩んでくる際には、あちこちで位置エネルギーの変動が起こり、それがSTMを誘発する。
 まあ、とにかくお試しになってみることだ。上記の報告は、理会不足・実践不足の点も多々ありはするが、いずれもなかなか深く良く繊細に感じているし、苦と楽の調和とか配線構造的なブロックのネットワークなど、私が修法伝授に際して一言も口にしていない抜苦与楽修法の本質を、見事に洞察し始めてもいる。
 この修法の効果を語る彼女/彼らの言葉には、嘘も偽りも誇張もない。

◎抜苦与楽修法は、不調和の左右差だけでなく、前後(腹と背中など)の差も調律できる。

◎痛みを消そうとして、抜苦与楽修法を行なってはいけない。痛みはそのままそこに置いておき、注意だけを反対側に移す。すると、自然に「ほどけ」始める。

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◎インドネシアへの聖地巡礼・・・3〜4週間ほど前のことだが、突然、「そういう気分」になった。
 慌ただしく旅行の手配を済ませ、妻の美佳と共に、本日、出立する。
 彼の地ならではのいやしのマナを、トータルに感性を開いて感じ・受け、しっかり学び取ってくるつもりだ。

<2010.05.27 紅花栄(べにばなさかう)>

注)実際には、いったん自然体に戻して左右の位置関係を正確に特定するなどの手順がある。詳細は第9回の解説をご参照いただきたい。